【2・11特集】個の尊重による憲法政治復権を 本紙2017年2月5日号より抜粋

昨年、政教分離を監視し天皇の戦争責任を問い続けた平和遺族会全国連絡会代表の西川重則氏、日本の戦争責任問題など多方面で発言してきた日本キリスト教会牧師の渡辺信夫氏が亡くなった。信教の自由を考える上で、西川氏、渡辺氏が遺したものは、今も多くの牧師、信徒に受け継がれている。本紙で取り上げた西川、渡辺両氏に関する記事の一部を採録する。

西川重則氏

戦後日本国憲法が施行されて70年になるが、時代の流れは率直に言って、平和憲法にふさわしい動向、日本国憲法にふさわしい憲法政治が行われず、信教の自由・政教分離の原則は軽視され、戦前回帰の政治が公然と行われている厳しい状況である。
憲法条文の第一三条では「すべて国民は、個人として尊重される」ことが強調されており、第一三条に続いて第一九条では「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と明言されている。そして第二〇条では「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と強調され、確認されている。第二〇条の第三の柱として、現行憲法で国家と宗教の分離である政教分離の原則が初めて表明され、強調されていることは、まさに歴史的であり、すばらしい。信教の自由は、信ずる自由と信じない自由を意味しており、例を挙げれば明らかなように、宗教法人靖国神社の場合、個人として、参拝することは可能であり、個人として参拝しないことも自由とされている。
信教の自由の主張は決して小さい問題ではないのである。私が要望して出版された朴永昌(パク・チャンヨン)氏の書物『正義がわれを呼ぶ時』という三人の韓国人の信教の自由をめぐっての戦いの課題は貴重な事例と言えよう。1939年3月24日に、当時の日本の国会で、厳しい状況にあって3人の韓国人が国会の本会議を直視しつつ、彼らの主張を貫徹しようと努力したが、戦時中であり、当時植民地支配にあって、信教の自由が奪われていた時、三人の主張は完全に無視され、主張の直後に三人は直ちに逮捕され、リーダーの韓国人が傍聴席から大声で主張したことは絶対に許されない行動とされ、日本の国会で、日本の政府が主張していた通り、宗教団体法は4月8日に公布された。
三人は日本にいて、当時の宗教事情について日本の宗教者から神社参拝を強制されることを知らされ、反対運動に最善を尽くしていたのである。そして、韓国人として信教の自由が奪われることの重大性を国会で訴えようとしたのである。当時の日本の宗教者、たとえばキリスト者は国家権力によって宗教団体法が公布されることを知りながら、最善の努力をすることをしないで、あきらめに近い思いで、どうすることもできない日々を過ごしていた。その事実をよく知っていた三人は、だからこそ国会傍聴をして、あえて傍聴席から宗教団体法案反対の戦いをしたのである。三人のうち、二人は長老であり、一人は『たといそうでなくても』の著者として有名な女性の安利淑(アン・イスク)氏だった。宗教団体法という悪法が公布されたのは、193
9年の抵抗運動の直後であり、彼らの抵抗は一見空しいと思われた。公布され、宗教団体の弾圧運動が強まり、信教の自由は完全に奪われたことは周知の通りである。
私たちは、時代と状況の違いこそあれ、戦後72年の今、類似の状況、戦争法が強行採決されているが、靖国神社の参拝拒否を訴え、信教の自由・政教分離の確立を提言したい。私は国会傍聴の時、三人が傍聴していた同じ席に座り、歴史的戦いを歴史の教訓として、信教の自由・政教分離の保持・確立の戦いを心に刻み、心から感謝の思いを講演などで訴えている。