【憲法特集】すべての人が真に「わたしらしく」斉藤小百合(恵泉女学園大学教授)

「個人の尊重」というけれど…

「個」のみ語ると温存されている性差別を隠蔽し、加担する

憲法も聖書も、性別にかかわりなく、究極的には「個」として立つことを主張しているのだと思う。その意味で、性別によって権利のあり方や信仰のあり方が規定されるということはないのだと思う。

ただ、歴史的存在としての私たちの前には、厳然とした「家父長制」や「男性中心主義」的に構成されてきた制度があり、現状の制度の中で性別を無視して「個であること」のみを語ることには注意しなければならないとも思う。結局、それは、現状の制度に温存されている性差別を隠蔽し、加担することにつながってしまうから。

いや、ようやくそのように考えられるようになったと言うほうが正確だろう。わたし自身、男性中心主義社会の女性蔑視の中で、男性中心主義的な価値観を内面化し、「名誉男性」になることで、なんとか生き延びようとしてきたのだと思う。それは自分の研究領域においても、「女性の人権」というのは論理矛盾で(人は「普遍的」なので、性別や人種といった属性による区別は存在しないと考えるから)、「ひとつの人権」しか存在しないと考えてきた。しかし、女子大学で教育に携わる中で、そしてまた、たくさんの方々と出会うことで、遅まきながらも、「ひとつの人権」のみを語ることの欺瞞(ぎまん)性に意識的であるべきだと考えるようになった。

「一人の人間」、「一人の個人」として尊重されること、その点で「男も女もない」と切り捨ててしまうことは、わたしたちが生きるこの社会で、さまざまな制度に温存されている不平等をあいまいにし、悪くするとなかったこと、ないことにされてしまいはしないだろうか。制度的に、構造的に、格差が作られているのに、「個であること」を前提として議論することで、「わたしは一人の個人」として、あとは「わたし(=女性)」の個人的努力に丸投げしてしまうのだ。それはジェンダー差別を女性の個人の問題にすり替えることでもある。つまり、「女であること」によって生きづらくされているが、それを社会の問題として声をあげることを断念させ、もっぱら「わたし個人の問題だ」、「わたしの努力が足りないからだ」と思いこまされるのだ。

(この後、斉藤氏は日本は「ジェンダー以前に人権後進国」「憲法の神髄は個人の尊重」と語ります。2021年5月2日号掲載記事

斉藤小百合著 『打ち捨てられた者の「憲法」』いのちのことば社 990円(税込)