敗戦76年 各地で8・15集会 宗教は「名誉の死」に利用される 「『終戦の日』を前に戦争を考えるミニ集会」で星出氏

日本長老教会大会社会委員会主催による、「『終戦の日』を前に戦争を考えるミニ集会」が、8月10日オンラインで開催された。講師は同委員会委員で西武柳沢キリスト教会牧師の星出卓也氏。「ボーっと生きていると信仰が戦争の道具に ~戦争と宗教利用~」を講演題に、国民を戦争に駆り立てるため、いかに宗教が利用されてきたかを歴史的に検証し、そこから見える現状の危険性について語った。

星出氏は冒頭、「本日いちばん確認したいこと」として「教会の霊的自立」を挙げ、「私たちの信仰は、他の何かの目的に利用されたり、何かの道具とされたりしてはならない」「教会をこの地に立てるということはキリストのみを頭とするキリストのからだを形成すること」だとし、本題に入った。以下は講演の要約。

国家が戦争を推進しようとする時には、ハードと共にソフトの整備が必要。ハードとは有事法制のような自衛隊の海外派兵や武器使用が可能となる制度的枠組みなどだが、それだけで戦争が進められるわけではなく、市民の心を国のために献身させ、 いのちをも捧げさせることに心から同意し戦争を推進させる精神的な側面、ソフトの整備が求められる。

2012年の「自民党憲法改正草案」以前、05年に出された「新憲法草案」は、「公優先」的性格を前面に出さず、いわば立憲主義と戦力の保持を両立させた憲法改正草案と評価されてもいるが、そこでも9条と共に改定されたのは20条3項の政教分離原則。軍備化の仕組み作りと政教分離原則の緩和は、それぞれ単独では成り立たない。軍備化を進めようとする歴代首相が必ずと言っていいほど靖国参拝にこだわるのは、靖国神社というシステムが戦争遂行のソフト面での中心的な役割を担っているため。つまり、国のために戦死することを最高の善として褒め称えるために創られたのが靖国神社であるからだ。

人は徴兵制のような法制度や義務だけで「いのち」までも捧げられるものではない。戦時中「わが命は国のため、天皇のために死ぬことが最高の名誉」と心から納得して兵士は戦死し、靖国神社に祭神として祀(まつ)られた。その遺族は戦死者を靖国神社に合祀(ごうし)する例大祭に国費で招かれて「招魂の儀」に参列し、祭主である天皇自身が合祀された戦死者を参拝するという「名誉」にあずかる。そこは死を悼む場所ではなく、戦死者を「顕彰する」場所である。しかも、そこで顕彰されるのは皇軍兵士だけであり、相手側の戦没者は絶対に合祀されない。皇軍兵士によって殺された敵側の犠牲者を見えなくさせ、皇軍の加害行為を隠蔽する。

これは日本だけのことではない。アメリカのアーリントン墓地も、ベトナム戦争でアメリカ兵によって殺されたベトナム人の名前は一切刻まれていない。そこには自国の戦争を正義の戦争として宣伝教化し、市民の戦争協力のメンタリティーを醸成する「靖国」的な役割に利用される危険性が常にある。ベトナム戦争の際に、アメリカの多くの教会が愛国礼拝を行い、大勢の若者をベトナム戦争に送るという役割を果たしたのも事実である。戦時中、日本の教会も勝戦祈祷会を開き、武運忠国礼拝を開き、戦闘機ゼロ戦を軍に献品するために献金を募った。礼拝は、国旗掲揚で始まり、宮城遥拝が続き、そして讃美歌も軍歌のようになった。教会もまた「小さな靖国神社」のような役割を果たしていったということである。このようにして、宗教は戦争に利用されていった。

一方、アメリカでも、少数の教会はベトナム戦争の中にある欺瞞(ぎまん)を見抜き、良心的兵役拒否を勧める教会となった。戦時中のドイツでも、ナチスの政策によって「ドイツ的キリスト者運動」が大勢を占める中、一部の教会はそれに抵抗して「告白教会会議」を開催し、バルメン宣言を採択した。これは教会の霊的自立を守るための闘いだった。その教会の多くは閉鎖され、教会の組織は壊されたが、それでも彼らは、教会が教会であることを守ったと言える。

日本が再び戦争ムードに染まる時、問われるのは堅く真理に立つ教会であるかということ。国や社会よりも、神の言葉に聴き、そこにのみ従う。この一つが守られなければ、教会が教会であり続けることはできない。─

2021年8月29日号掲載記事