写真=支援活動の拠点になった石巻渡波の商店前

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に2011年3月21~26日に参加した。連載最終回はその後の仙台教会の支援と宣教を振り返る。【高橋良知】

前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

③忍耐の一週間と支援の開始

④仙台から陸前高田へ

⑤陸前高田唯一の教会

⑥津波は教会堂手前まで

⑦震災前からの困窮/会堂流出の現場

⑧再建と地域の魂への思い

⑨仙台から気仙沼へ

⑩悲しみだけではない日常がある

11被災地にあり続け、感じる「ズレ」

12高齢化進行、だからこそ良い関係

13仙台から東松島へ

14津波で孤立/復活信仰へ

仙台教会メンバーには石巻市出身者が複数おり、徐々に支援は石巻に集中していった。4月2日、仙台教会教会員の庄司弘子さんとその家族は、教会の支援物資を持って、石巻市、女川町の様子を見にいった。週明け5日には娘のりえさんと吉田真知子さん(吉田耕三牧師夫人)の3人で石巻市に出かけ、支援活動の必要を実感した。

日本福音自由教会協議会としてのボランティア派遣は4月14日まで6次続いた。第2陣には、当時の協議会長の服部真光さん(現大治福音自由教会牧師)が名古屋からトラックを運転して駆けつけた。その後も教会、有志単位の支援は続いた。

仙台教会としても頻度を変えながら石巻を支援した。福岡県からはギルバート宣教師夫妻が震災直後からかかわり、6月には石巻に移住。米国福音自由教会の支援も得られた。海外との調整には服部さんや北野献慈さん(広島福音自由教会牧師)が尽力した。
5月からは牡鹿半島の入り口となる渡波地域にある商店の駐車場が物資配布の拠点となった。

吉田耕三牧師は「教会は御言葉の宣教が中心だったが震災支援では、愛のわざとともに働きが進んだ」と話す。庄司さんは「マニュアルも何もない。祈って気づかされたことを、それぞれ丁寧に積み上げた。千年に一度の災害で何もできずに終わるのではなく、やれるだけのことをやらせていただき感謝」と振り返る。教会員の深澤まり子さんは「自分ばかり見つめていると気持ちがふさぐ。世界中からの支援を受けて、『教会はすごい』と力づけられた。疲れはあったけれど喜びがあった」、真知子さんは「大きな愛に動かされて、みな自らを犠牲にしてでも動けた」と述べた。

ただ支援活動の疲れにも直面した。当時仙台教会副牧師だった門谷信愛希さん(古川福音自由教会牧師)は、救援活動を担当し、休みを返上して2か月動いた。

「沿岸のすさまじい破壊の状況を見て、仙台に帰ると普通の生活がある。『沿岸の人たちは大変なのに、家でゲームなど気晴らしをしてていいのか。暖房を入れていいのか』と最初の1、2週間は罪悪感に苦しんだ。被災県だけれども大きな被災をしていないという中間的な立場。遠方から一週間だけ支援に来るのとも違う。『このままだと精神的にまずいな』と思い、割り切って『罪悪感を持つのはやめよう、ちゃんとストレス解消しよう』と思え、楽になった。それでも2か月すると疲れが出た。がれきを見ると、動悸が激しくなるなど、体調に異変を感じた。その後は、支援活動への参加の頻度を落としました」

庄司さんも12月頃には疲れが出て、いったん支援活動から離れた。「あれがなければ心を病んでいたと思う。それくらい支援のことばかり考えていた」と語る。

門谷さんは「専門家から学んだり、リトリートを設けるなどして、メンタルヘルスのケアを教会としてもっと考えるべきだったと反省はある」と教訓を語った。

夏までに石巻市では仮設住宅に人々が移った。仙台教会では野外での物資配布を継続していたが「不思議と毎回晴れていました」と吉田牧師。ところが8月末の配布時、大雨に見舞われた。特別に仮設住宅の集会室を開けてもらった。このころから仮設住宅での活動が始まった。

支援も茶話会など、物資配布中心から「相互の信頼関係を築き、心通わす交わりを構築する働き」に変わった。12月には200箱のクリスマスボックスを周辺の人々に配った。仙台教会用地に隣接する県道環状線沿いの土地が売りに出て、12年には宿泊機能をもつプレハブの支援センターがオープンした。

さらに「被災地に『拠点』を設け、常駐もしくはそれに近い形でスタッフを置くことができるならば、被災者の方々と接触する頻度や密度がぐっと上がる」と期待された(12年仙台教会年報)。

「最初は警戒心を持って迎えられていた教会の活動も、損得を超えて、自分たちのためにやって来るクリスチャン達の姿を見て、キリスト教に親しみを抱くようになったようです。そのころよく聞いた言葉は、『キリストさんはこの前も来てたね。今度はいつ来るの』でした。こうして賛美や祈り、キリストをあかしすることも出来るようになったのですが、一方で、集会所での宗教活動は困ると言う方もおり、霊的な支援を自由に出来る場所の確保が緊要であることを感じさせられるようにもなりました」(石巻宣教ミニストリー報告2018年1月)

13年には教会形成も視野に入れた支援継続のため「石巻宣教ミニストリー」が、日本福音自由教会有志の教会の協力体制で始まった。

 

福音は精神だけでなく受肉する

震災支援活動を通して学んだことして門谷さんは「ふだんからの救済の働き、福音の受肉化が重要」と述べた。「福音派では福音が形而上的なものになりがちだった。もともと愛の働き、福祉的な働きは教会が担っていたが、歴史的経緯で行政に委ねてきた。さらに福音派は社会福音に対抗して、精神面を強調していた。1970年代のローザンヌ誓約以降、社会的な責任に注目が集まったが、日本では震災が決定的な変化のきっかけになったと思います」

「大事なことは災害が起きていない時、どう適用するか」とも強調した。
「小さい教会だと展開は難しい現状はあるが、地域の貧困に気づき、フードバンクや子ども食堂を始めている教会もある。コロナ禍で、集まって礼拝ができない時。教会が何のためにあるか問われていると思います」

メッセージを語る姿勢も変わった。「人間関係、生きる意味、この先世界がどうなるのか、といった現実の問題設定、実際の必要に応える内容を教会が語っているかが重要だと思います」

中学生、小学生、幼稚園生の子どもがいる。次の時代の子どもたちに伝えたいこととして、「痛みに寄り添うことの大切さを知ってほしい」と話した。「痛む人に、なんて声をかけたらいいのか、どう励ましたらいいかわからない、と悩む経験をしてほしい。自分の気持ち良いこと、霊的に満たされることばかりを追い求めるのではなく必要に応えること。痛みに寄り添ってもらうことのありがたさは、被災を多少でも味わったことで分かってきました」

「震災でなかったら出会えなかった人の輪がものすごい財産」とも言う。「服部先生とは、分かり合える関係、尊敬できる固い絆が結ばれたと思う。後に協議会役員のとき、信頼関係を土台に遠慮なく様々な議論ができた。フラットな人間関係と宣教のための協力という福音自由教会の良い文化を再認識できました」
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深澤さんは「遠方から自費で救援に来てくれた方々の信仰から学んだ。いろんな人との分かち合いに励まされた」と振り返る。「神様を知っていると知らないのでは違う。とっさに神様に祈れることは大きい。今の子どもたちには、まず神様という存在を知ってほしい」と話した。

庄司さんは「支援活動をしなかったら、教会の兄弟姉妹の結束はちがったかたちになっていたと思う。今はコロナ禍でなかなか活動できないが、家庭訪問のグループ、お弁当を届ける働きが起きている。支援活動の経験がその後の教会の活動にあらわれていると感じた」と語った。教会の支援センターに張り出されている「喜びをもって主に仕えよ」(詩篇100篇2節)を紹介し、「義務感でなく、喜びとなることが重要だった」と言う。

真知子さんは「喜びの領域に達するには、なまじっかではできない。いろいろ未熟だが、神様が赦してくださって、それぞれの賜物を用いてくださった。神様は純粋なものでないとお喜びにならない。きよめていただかなければ、支援活動は続けられない。ものすごい訓練だった」と言う。

32年前、日本福音自由教会40周年事業で「東北をキリストへ」を掲げ東北宣教の宣教師として派遣したことを思い出し、「仙台教会と古川教会を開拓してそれで終わりかと思っていたが、神様は忘れていないと思わされた」と感謝した。

「結局は信仰、希望、愛。その中でいばんすぐれているものは愛ということなのだと思う。世界を見ると、どんなにがんばっても最終的に滅びに向かうようにしかみえない。だからこそ、本当の信仰を伝えたい。そのためには言葉だけでなく、あらゆる形で愛を伝えなくてはいけない。神様にあるいのちの尊さを、痛切に感じます」

クリスチャン新聞web版掲載記事)

連載各部のリンク

第一部 3組4人にインタビュー(全8回   1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った  (全4回   3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間   (全16回 4月25日号から8月22日号)