私たちはときに、日常生活の中断という厳しい経験をします。

教会生活やその働きも例外ではなく、災害などで当たり前がそうでなくなる事態に多くの教会が直面してきました。そのたびに、教会はその過酷な状態に対して二つの対応を迫られてきたのです。

一つは問題解決のための現実的な対応であり、もう一つはその対応に神学的な意味付けをすることです。

コロナ禍においても同様です。

集まることを制限された教会は、それでも礼拝をささげて神の働きをしていくために苦闘しています。

その中では教会の伝統を変えなければならないことも多く、その未知なる対応について聖書学的・神学的な裏付けを求めてきました。例えば、オンラインによる聖餐の有効性について議論となり、それはこれからも継続していくことでしょう。

神学校に対するコロナ禍の影響として、講義自体はオンラインで可能であるにしても、その内容が本当に伝わるのかどうか、まだまだ見えないところがあります。

また、具体的な人間関係や生活から学ぶという機会が失われましたし、教会内外の活動を通しての訓練も十分にできなくなりました。現実を失った身体性の欠如といった点について、神学校関係者は心配されてきたように思います。コロナ禍が収束するまで、さまざまな問題が完全に解決されることはないのかもしれません。

(そのような状況でも神学教育が果たすべき責任・役割はある、とさらに南野氏は語ります。2022年1月2・9日号掲載記事)