2015年8月9日号掲載記事)

1970年代から80年代にかけて、韓国内の民主化勢力と、日本キリスト教協議会(NCC)関係者を中心とした日本の連帯勢力と連携し、「T・K生」の筆名で月刊誌「世界」に「韓国からの通信」を書き続け、韓国の民主化運動を世界に発信していたクリスチャンの池明観氏(91)=元翰林大学翰林科学院教授・日本学研究所所長=。その池氏を招いての講演会「越境する情報とメディア〜『T・K生』の時代と『今』を語る〜」(「多文化共生・統合人間学プログラム」主催)が7月10日、東京・文京区本郷の東京大学本郷キャンパス東洋文化研究所で開催された。【中田 朗】

「私が日本に留学に来た1972年、韓国においては、日本と言えば植民地支配をした我々の敵だという思いが強い時代だった。そうした時代から、私自身がいかに日本人を友人と思うようになったかを話したい」。池氏は初めにこう語る。
池氏は「私の日本での活動は、70年代から80年代へと続くが、この時は日韓関係、日朝関係において、いまだかつてない市民連帯の時代だった。この市民連帯がなければ、韓国の民主化も非常に困難な道を歩まざるを得なかった」と話す。DSC_0010
日韓条約が締結された1965年の12月、池氏は初めて日本を訪問。「到着して驚いたのが、日本人はこんなに我々と近い国であったか、ということ。日韓条約反対運動でもった日本人のイメージが、羽田空港に降り立った瞬間から崩れ落ちた。そして日本人が共有している自由に魅せられた」
東京大学で日本思想史を学ぶため留学した翌73年5月から、「韓国からの通信」を書き始めた。「雑誌『世界』を通じ、朴正煕軍事政権下の韓国の情報を世界に波及させるための努力をした。暗黒世界の情報が自由な世界へと伝播する。このような越境の仕方をしたのではないか」
池氏は「情報が越境できたから、南(韓国)は変わってきた」と言う。「『韓国からの通信』は戦略的なメディアだった。戦いのために有効な情報、メディアであり、発信地は日本で、その情報は世界へと伝えられた。だが、その情報は正確で、戦いにとって有効でなければならなかった。内容も反共的でなければならず、その情報もキリスト教的なものとしなければならないという限界があった。にもかかわらず、その情報のために数多くの人が受難に遭い、政府の取り締まりの対象となり、苦しみに遭わざるを得なかった」
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その上で、「韓国の民主化の戦いが世界的で、日本からも支えられていたことを忘れてはいけない」と強調。「我々が日本で考えたことは、すべての情報が国際的共感を得なければならないということ。そしてこの戦いが、日本の良心的な人々との協働であったことだ」
「韓国で収集した情報が日本に着くと、NCCから世界の教会へ、各国のマスコミへと伝わっていった。そして、各国のマスコミがそれぞれの政府に働きかけた。私はこの時、日本は東アジア革命の中心である、東京は革命の媒介のためにある、と考えざるを得なかった」とも話す。
これらの経験から池氏は「他国の人の善意を信じる姿勢が重要だ」と強調。「日韓の間にはいろんなことがあるが、我々は否定的なことに注視して日韓問題を考えるのでなく、否定的なことも時々参考にしつつも、日本の肯定的な面に目を向ける姿勢が必要だ」
「政治権力は国を中心に考えるが、市民の良識はアジアの連帯を考える。すなわち、権力者の道と市民の道は異なる。市民は越境するメディアと情報をもって、中国、韓国、日本を結ばなければいけない。市民の力が未来の希望ではないかと私は思う」と結んだ。

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