前回(5月22日号)は米非営利団体「聖書プロジェクト」の新アプリに関連して、私たちの生活環境を取り巻くメディアが、どのように変化し、私たちにどのような影響を与えるか、という「メディア・エコロジー」の観点を紹介した。その際、メディア研究者マーシャル・マクルーハンが参照された。今回はその続き

(記者=チェイス・ミッチェル、記事原題:The Bible Project Would Like Your Attention, Please. 配信元https://medium.com/faithtech 数回に分けて掲載予定)

§   §

彼(マクルーハン)の死後に発表されたインタビューでは「技術という愚かな歴史的偶然によって教会が崩壊したことにすぐ気がついた」(※3 35頁)と述べており、宗教改革の主な勢力として活版印刷の登場を嘆いた。マクルーハンは、曲げられた感覚という概念を現代のメディア技術の進歩に適用し、神の摂理である歴史におけるテクノロジーの役割に対して、絶望と希望の間をその時々で揺れ動いていたのである。

 

彼はテクノロジーがもたらす益への興味は薄かったが、実際のところコミュニケーション・テクノロジーを避けてはおらず、文化に取り込むことにも何の抵抗もなかった。そのためテレビ出演や雑誌のインタビューも行った。

このようなマクルーハンの著書と行動の不一致を鑑みると、彼が聖書プロジェクトを支持する側にいるのか、はたまた批判するのか判断しかねる。

 

一方でマクルーハンの作品集を見ると、新しいメディアは克服すべき障害で、終末論的ビジョンから粛清されるべき人類の罪の結果と理解していたことを示唆しており、したがって聖書プロジェクトに対しては少なくとも恐れを示していたことだろう。マクルーハンは文化に従事しながらも、感覚を「混乱」させ、視覚を「刺激」させるような新しいメディアには慎重だった。

 

 テクノロジーとテロス(目的)

 

マクルーハンなどが所属していた有名な「トロント学派」の一人であるジャック・エリュール(1912-94)もまたメディア・エコロジーの著名な思想家であった。1932年にキリスト教に改宗したことを「非常に明白で突然だった」(※4)と表現したフランス人のエリュールは、「技術」(la technique)を「すべてを最適化するための専制的な命令」(※5)と定義づけた。

 

エリュールの言う技術は、技術とは何かという存在論ではなく、技術が果たすべきテロス(目的)に焦点があてられている。この観点からすると、新しいコミュニケーション・テクノロジーは、人の時間と意識を創造主である神から遠ざけ、各々の勝手な目的に導く、いわゆる「悪」なのである。(つづく)

※3 Babin, Pierre.The New Era in Religious Communication. Minneapolis, MN: Fortress Press, 1991.
※4 Ellul, Jacques. Perspectives on our Age. New York, NY: Seabury Press, 1981.
※5 L. M. Sacasas, “You Can’t Optimize for Rest”, The Convivial Society 2, no. 21 (2021), para. 18.

 

この記事は国際的なデジタル宣教ミニストリー「FaithTech」(フェイステック)が発信する記事サイトから「FaithTech日本」の協力で翻訳掲載します。

クリスチャン新聞web版掲載記事)