重慶大爆撃を知り平和を真剣に考える 爆撃の煙の中 で叫びたい「ここに人間がいる」 日本キリスト改革派西部中会8.15集会

日本キリスト改革派西部中会・世と教会に関する委員会は8・15集会を8月11日、神戸市灘区の改革派・神港教会とオンライン併用で開催。柏木貴志氏(改革派・岡山教会牧師)が「想像力の翼を広げて、爆撃の煙の中へ~今、重慶大爆撃幸存者の言葉を聞き直す」をテーマに、日中戦争中の1938年から43年にかけて行われた日本軍による中国・重慶の空爆について語った。満州事変から日中戦争への歴史を振り返れば、当時の日本の姿が現在のウクライナ侵攻を続けるロシアと重なる。「平和ということを真剣に考えなければ。重慶や広島の戦争体験者の言葉と連帯し、その言葉から平和を希求したい」と呼びかけた。
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柏木氏は82年生まれ。戦争体験者から直接話を聞いて育った世代から一世代後の、あえて知ろうとしなければ「戦争が気付かないままに風化していく世代」と語る。大学時代、平和問題を学ぶ中で重慶大爆撃を知った。現地で幸存者(中国における生存者の呼称)から話を聞き、2006年に爆撃の被害者と遺族が日本政府へ謝罪と賠償を求めて起こした裁判にも足を運んだ。同裁判は19年、多くの戦後補償の裁判と同様、敗訴が確定した。
重慶爆撃の7年前、関東軍による錦繍(きんしゅう)爆撃が行われた。第一次大戦後初の都市爆撃だ。国際社会から非難を浴び、当時の国際連盟は日本軍の速やかな撤収を勧告したが日本軍は中国大陸を侵攻し続ける。
32年第一次上海事変。33年国際連盟脱退。37年盧溝橋事件から中国との全面戦争に突入、中国各都市を爆撃し続け、南京爆撃の後、38年臨時首都となった重慶を標的とする。40年から連日昼夜問わず攻撃を続ける作戦を実施。火で焼き尽くすナパーム弾が使われ、当時最新鋭の戦闘機ゼロ戦が躍動した。国際社会から孤立しても進めた日本軍の大陸戦は、戦略爆撃の進化の歴史ともなった。後の米軍による東京大空襲は同じナパーム弾爆撃で、1日で10万人超が犠牲となった。「爆撃は一瞬で人の命を奪い、一生を変え、尊厳を奪う。戦略爆撃の思想は、恐怖を与えて交戦意欲をくじくもの。怖い目に遭えば抵抗するのをやめるだろうという論理だ。だが、人は理不尽な目に遭えば怒り、何とかしようとする。人間には死んでも奪われたくないものがある」
重慶の幸存者は「死んで行った者は本当に悲しかっただろう。だが、生きて来た者も大変。死んだ人がうらやましかったほどに」と、爆撃により家族を失い、傷を負い、狂わされた人生を振り返った。「体験者の苦しみはずっとまとわりついていくもの。思い出したり夢に見たり、生きている限り空襲の追体験をひきずっていかなければならない。生き残った人の怒りや憎しみは消えなくても和らぐことはあるけれど、寂しさや悲しさは決して消えてなくなることはない。私が出会った人々は報復の思いではなく、平和を願って話してくださった。言葉は憎しみの帰結ではなく、悲しみの途上として語られてきた」
84年の時を超え、重慶を、戦争を知るには想像力が大切だと語る。生き証人や残された資料から、想像力の翼を広げてほしいと。「愚かにも、今も人が人の上に爆弾を落とし続けている。人々は起こったことを忘れて無関心になっていく。その愚かさに向き合うことが、私の戦争責任。平和を希求するとは重慶の人々の言葉と連帯することだ。今の日本の〝戦争をしてはいけない〟という言葉は、被害者にはなりたくないが加害者にはなってもいいと聞こえる。日本の歴史は今のロシアと重なる。その愚かさを振り返り、平和について真剣に考えよう。爆弾を落とすくらいなら落とされる側に立ち、煙の中でここに人間がいると叫ぶ者でありたい」【藤原とみこ】

クリスチャン新聞web版掲載記事)