≪特集≫木浦共生園 「韓国孤児の母」田内千鶴子生誕110周年 「木浦市民に感謝を」

福祉は地域に支えられてこそ

共生園内に建つ、尹致浩・千鶴子の像

「韓国孤児の母」と呼ばれた田内千鶴子が生まれて今年は110周年。その千鶴子が、戦前戦後に3千人の孤児たちを育てた「共生園」のある韓国木浦市で、今年10月、「木浦コンベンション」が行われ、「木浦市民の皆様ありがとう」と刻まれた感謝碑の除幕式が予定されている。千鶴子の長男でその意志を継ぎ、現在共生園の運営財団の理事長を務める田内基さんは「夫が行方不明になった後も母が共生園を守れたのは木浦の人々のおかげです。窮地の時にはいつも身体を張って助け守ってくれた木浦市民に、感謝を伝えたい」と語る。【髙橋昌彦】

千鶴子の長男の基さん(社会福祉法人こころの家族理事長)

祈りとみことばで生み出され 市民に守られた苦難の歴史

共生園の歴史は、後に千鶴子の夫となる伝道者の尹致浩(ユン・チホ)が、路上生活をしていた7人の孤児を引き取って生活を共にしたことに始まる。何もないままに、周りからは「乞食大将」と呼ばれながら、チホは子どもたちを育てていった。そんな中で、チホは講堂建築を始める。「子どもたちに食べさせ眠らせる以上に大切なことは、神様を父と知り、礼拝することです。そのためにはどうしても講堂が必要でした。『信ずる者には、どんな事でもできる』と信じ、『神、備えたもう』の言葉を握って父は祈りました。『素手で建てます。素手で築きます』。これ以外に、祈りの言葉を探せなかったのです」。廃材をかき集め、10年かけて完成した講堂は、その後40年以上にわたって子どもたちが神様を知り、神様の愛情に感謝をささげる信仰の道場となった。
音楽教師だった千鶴子がチホと結婚するのは1938年。その後共生園を営む二人に対して、大きな危機が3度あったと基さんは言う。1度目は、終戦直後。日本人の妻を持つチホは親日派だとして、人々が押しかけた。当時は日本語をしゃべっただけでビール瓶が飛んで来るような時代。その時は子どもたちが「日本人でも私たちのオモニ(お母さん)だ」と言って、身を挺して二人を守った。「この時、『真心を込めてやったことを子どもたちはわかってくれた、この命を捧げると決めた』と、後に母から聞きました」
2度目は朝鮮戦争で、北朝鮮の人民軍が木浦まで侵攻して来た時。多くの人は避難したが、大勢の孤児を抱えた二人にはできないことだった。共生園は接収され、兵舎のようになっていた。園長で、キリスト教の伝道者で、日本人の妻を持っていたチホは、その場で人民裁判にかけられた。千鶴子も一緒だった。銃殺の危険が迫る中、その時集まった村人が、「この人に罪があるとすれば、孤児たちを育てたことだけ」と、銃の前で勇気を出して言ってくれ、二人の命を守ってくれた。
3度目は、マッカーサーの仁川上陸で韓国軍が入って来た時。その頃、人民裁判の危機を免れたチホは、村人から人望があるということで、北の人民軍から木浦の人民委員長に任命されていた。避難せずに残っていたことも北側の協力者、共産主義者の疑いを強めた。当然韓国軍に捕まった。北側の人民委員長を務めた者など裁判なしで殺してもいいような時代だった。その時助けてくれたのは、木浦市内の教会の牧師たちだった。「彼は孤児たちのために避難できなかった。共産主義者ではない」と、嘆願書を提出してくれた。

行方不明の夫を待ち続け 帰宅の望みが平和の架け橋に

その後1951年に、チホが行方不明になる。朝鮮戦争によって孤児の数はますます増え、500人を超えていた。食料調達のため光州に出かけ、その日は水曜日だったので中央教会で礼拝に出て、その後旅館へ。夜にやって来た3人の男とともに旅館を出た後、チホは消息を絶った。
「その3人が北か南かはわかりません。でもわからなくていいんです。わかったらどちらかを憎むことになりますから。父の生死が判然としなかったことも恵みです。死亡が確認されれば、母は私たちを連れて日本に帰ったでしょう。父が帰ってくるという望みを神様が残してくれたから、母はどんなことがあってもここにいなければと、頑張れたのではないかと思います。それが今日、田内千鶴子が日韓の平和の架け橋になっている最大の原因です。母にすれば、子どもと一緒に夫の帰りを待っているだけ。偉人でもなんでもない、平凡なクリスチャンです。福祉事業をやっているなどという意識は全くなかったはずです。そんな姿がまた、木浦市民には、愛すべきものとして映ったのではないでしょうか」

木浦市民に愛された共生園 すべてを備えた神に感謝を

「ユン・チホが7人の孤児を引き取って始めた働きが、木浦の市民に出会って、市民から愛されたということ。あの古い講堂からは3千350人が巣立ちました。ある卒園生は、『講堂で聞いた説教を今でも覚えている。仕事をしていても、遠くから聞こえる鐘の音に、幼い頃を思い出す』と、手紙をくれました。共生園も田内千鶴子も、木浦市民に支えられました。福祉の働きは、地域の人たちに支えられてこそ。これは世界的な福祉のモデルにもなるべきことです。だから、碑を建てて、感謝の気持ちを表します。そして、その時々に絶妙なタイミングで働いてくださったのが神様です。〝あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい〟というキリスト教の精神で、祈りと信仰で始めた共生園ですから、まず神様に感謝しなければ。今回のコンベンションは〝福祉宣教大会〟です。神様に感謝してね」

クリスチャン新聞web版掲載記事)