「いない」のでなく「言えない」環境

近年、日本のキリスト教界でも新しい気づきのもと、性的少数者に対する「聖書的理解」を捉え直そうとする動きが出てきている。肯定的、否定的、依然様々な意見があり議論も起きているが、本紙フォーカス・オン「教会とLGBTQ」では、引き続きまず当事者の声に耳を傾けることに取り組みたい。
第1回(5月22日号)では、教会で長らく、特に同性愛が「罪」「癒やされるべき病」などと見なされてきた中で、クリスチャンの当事者が罪責感を感じたり、教会を去らざるを得なかったりしたことに注目した。また第2回(6月12日号)では、そうした罪責感や将来が見通せない絶望感が、他のクリスチャン当事者や神との出会いによって肯定的に変化していくケースを紹介した。第3回となる今回は、当事者の方々が教会に対して願うことについて紹介したい。

「性は多様で、選択できない」

「セクシュアリティは自分の意思ではどうにもならないこと。それを責められたら、当事者はとてもつらいです。ただでさえ自分自身も苦しんでいるのに」と話すのは、トランスジェンダーのMONさん。
このように語る当事者は少なくない。性的少数者の多くはセクシュアリティを自分で選び取ったわけではなく、むしろ、成長するまで自分のセクシュアリティに気づかなかったり、漠然と「自分は人と違う」と感じながら、その違いをはっきり表現できなかったりしてきた、と語る。
「性ってすごく多様で、『LGBTQ』(※)もとてもざっくりとした分け方。実際は虹のようなグラデーションというのが実感です。僕は手術前の体は女性、恋愛対象は女性でしたが、トランスジェンダーで性自認が男性なので、同性愛というより異性愛になるんです。でもトランスジェンダーで性自認は男性でも、男性に魅かれるという人や、性別関わりなく魅力を感じるという人もいて、本当にいろいろです」。MONさんの実感を伴う思いだ。(セクシュアリティへの認識の多様については5面に関連記事)

「僕は幸いにも心ない言葉を直接言われた経験はありませんが、トランスジェンダーの友人が、ホルモン療法を受ける中でセクシュアリティを隠せなくなり教会で打ち明けたそうです。その教会の教派はセクシュアルマイノリティに批判的な立場だったので、牧師が悩んでしまってすごく苦しんだ。そんな牧師の姿に胸を痛めて、友人は教会を去ったんです。次に行った教会ではセクシュアリティのゆえに強い批判にさらされて行けなくなり、もともと教会が大好きで一生懸命奉仕をする人だったんですが、結局自分の家で礼拝をささげるホームチャーチのようなかたちを取らざるを得なくなりました」
MONさん自身にも、韓国のセクシュアルマイノリティのパレードで教会が強く反対し糾弾している姿を見て、傷ついた経験がある。
「教会とセクシュアリティのことで自分を責め、追いつめられて命を絶つ人も現実にいます。同じ当事者としてすごく悲しくて、この問題は本当になんとかしなければいけない。僕自身は教会を責める気はありません。ただ、気づいてほしい。『うちに当事者はいない』と考えている教会もありますが、いないのではなく言えない。教会でセクシュアリティを打ち明けられるような環境づくりが進めばと願います」
「神様が人をどう見ておられるかいつも考えたい」とMONさん。「神様から離れさせるような事柄は、絶対に神様からの発信じゃないということをいつも基準にしています。教会とセクシュアリティの問題で死に至る人もいる。それって、神様が望んでおられることなの? と思うんです」(続く

 

インタビューに応じてくださった方(仮名)

MON(もん)さん :

40代。トランスジェンダー。出生時に割り当てられた性別は女性、ジェンダー・アイデンティティは男性。恋愛対象は女性。30代で性別適合手術を受け、現在は心身ともに男性。そのためトランスジェンダーであることを周囲はほとんど知らない。

(※)LGBTQ…レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアやクエスチョニングの頭文字をとった言葉で、性的少数者を表す総称のひとつ
トランスジェンダー…ジェンダー・アイデンティティと出生時に割り当てられた性別が一致していない人のこと(MONさんの場合)

2022年10月2日号掲載記事)