予言レンズに代え宣教レンズで見ると

人生の大半、私は黙示録を苦い薬のように扱ってきた。あまりに不可思議で、暴力的で、奇妙な書物だった。空想小説にあるような幻は、クリスチャンの日常生活の実際的問題とはほとんど無関係に思えた。せいぜいこう警告しているだけだ。「準備しておくがいい。終わりはいつ来るかわからないのだから!」

レンズ矯正

度の合っていない眼鏡をかけようとする人のように、私の問題はレンズだった。私の初期設定は、予言というレンズを通して黙示録を読むことだった。ヨハネの幻は、終末の出来事に関する一種の台本の役割を果たしていた。たとえば、ハルマゲドンの戦いや、反キリストによる地上支配などがそうだ。このレンズを通して読むと、今日の神の民のために黙示録が語る良い知らせを、なかなか見出せなかった。
しかし、仮に別のレンズを通して黙示録を読んだとしたらどうだろう?例えば予言のレンズに代えて、宣教のレンズを通して読んだとしたら? 宣教というレンズを通して聖書を読むのは、あらゆるレベルで救いと癒やしをもたらすために、神がこの世で行っていること、そして神の民がその全体的目的にどう参画するかについて聖書を読むことだ。
この原則を黙示録にあてはめるとどうなるか。終末のための戦略を見きわめようとする代わりに、殺された後に復活した子羊であるキリストによって人間を含む全被造物を贖い、回復するという神の壮大なミッションについて、黙示録がどう証言しているかを見出さなければならない。黙示録は、この世に対する神の愛に満ちた目的の究極的ゴールを示している。
しかし、それだけではない。黙示録は、神がこの世に完全性と救済をもたらすために何をなさっているかに、神の民を整え、力づけることも目指している。黙示録は私たちに対して、今ここで未来の前味として生きるようにと呼びかける。神がついにすべてを新しくしてくださる時を待ち望む間にも、人生の様々な状況の中にあって、クリスチャンの共同体が神の愛に満ちた宣教を体現することを、黙示録は可能にしてくれるのだ。
新約聖書学者マイケル・ゴーマン氏が言うように、私たちは「未来の台本としてではなく、教会のための台本として」黙示録を読む必要がある。黙示録を宣教的に読む方が、黙示録が書かれた形式と扱っているコンテキスト、告知するメッセージ、そして約束している希望とに対してふさわしいということである。

世界を再考する

黙示録の形式を見てみよう。聖書のすべての書物と同様に、「この文書の種類は何か」と問う必要がある。黙示録は聖書の預言書(黙示録1・3参照)と書簡(1・4、9)の両方の側面を兼ね備えているものの、何にもまして、啓示文学として知られる古代文書の形式に属する。啓示文学は、幻、シンボル、そしてストーリーに満ちている。肝心なのは、黙示録のイメージやシンボルは、文字通りに受け取られることを意図していないということだ。
高度に空想的な幻は、終末の出来事を描写するものというより、この世界を再考するようクリスチャンのコミュニティーに呼びかけるものだ、、、、、、、

(*1956年ビリー・グラハムによって創刊された、福音主義に立つ米国の雑誌。現在福音派だけでなく、キリスト教の代表的なメディアとなっている)

2022年11月13日号掲載記事)