アルヒル桟道橋。崖すれすれの場所を人々が歩く

アジア太平洋戦争中、日本軍によってタイとミャンマーの国境を結んだ「泰緬鉄道」は連合国軍の捕虜、アジアの労務者の過酷な労働によって建設され、「死の鉄道」と呼ばれた。その状況は、元捕虜らの証言、映画「戦場にかける橋」などで知られるようになった。その反省と追悼の思いを、現代の日本のキリスト者らも受け継いでいる。2022年10月、記者はその地を訪ねた。【高橋良知】

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現在「泰緬鉄道」が残るのは、タイ西部のカンチャナブリからナムトックまで。カンチャナブリまではバンコク方面から一日一往復の列車が通るほか、バスが頻繁に走る。

朝8時前にバンコク・トンブリー駅を出発。最初の駅を前に、徐行しはじめ、停車してしまった。同様なことはたびたび起こり、1時間30分遅れてカンチャナブリに到着。数分ほどで「戦場にかける橋」で知られるクウェー(クワイ)川鉄橋を通る。周辺は観光地化し、屋台や、テラス席のあるレストランが並ぶ。線路わきを歩く人、少し離れて橋を眺める人たちが列車に手を振った。

「戦場にかける橋」で知られるクウェー川鉄橋

終点手前のタム・クラセー駅で人々は降りた。「アルヒル桟道橋」がそばにある。線路を歩くが、手すりも柵もなく、一歩踏み間違えれば川に真っ逆さまだ。戦時中の捕虜、労務者たちは心身疲弊の果てにここで命を落としただろうか。崖下をしばらく眺めた。家族連れの子どもが泣き叫ぶ声がした。

アルヒル桟道橋

近くの洞窟では、死者が追悼されていた。このエリアでは2千人の捕虜とアジア人労務者が、日本軍によって、短い日数での難工事に従事させられた。その犠牲となった人々の規模は「線路の枕木一つに一人の命」と表現される。

元捕虜のE・ゴードンさんは「工事完成の動力源として日本軍が持っていたのはただ人力である。人間の肉体は安価だった。肉体労働者の数はあとになってさらに増加した―すなわちビルマ人、タイ人、マレイ人、中国人、 タミル人、ジャワ人などが動員された。総員は六万人を下らなかった」(斎藤和明訳『死の谷をすぎてクワイ河収容所』新地書房1981)と振り返る。

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連合国軍共同墓地

カンチャナブリ駅前には捕虜を追悼する連合国軍共同墓地がある。日本にも横浜市に同様の英連邦戦死者墓地があり、毎年8月にキリスト教式の式典が開かれ、運営をキリスト者らが支える。そのきっかけをつくったのが、当時の陸軍憲兵隊通訳者永瀬隆さんだ。

JEATH戦争博物館横にある永瀬隆像

永瀬さんは泰緬鉄道工事終盤から通訳を務め、連合国の兵士らと日本軍の兵士の間に立ち、その惨状を目撃した。戦後は連合軍捕虜墓地捜索隊調査に通訳として同行し、ジャングルに置き去りの兵士の墓や鉄道工事の実態を知った。

「労務者たちは死ぬとすぐその場所にそのまま埋められたり、クワイ河に投げこまれたり、コレラで死亡した者たちは、丸太のようにつみ重ねられて焼かれた」(永瀬隆『「戦場にかける橋」のウソと真実』)、、、、、、

2023年01月01・08日号 09面掲載記事)