サンピエトロ大聖堂には、使徒ペテロが投獄された牢獄の鎖を見に観光客や巡礼が訪れる。だが、手錠の贈り物を与えられたのは男性の使徒だけではない、と米ノーザン神学校のニジェイ・K・グプタ教授は言う。本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイがレントに掲載した、その論考の概要を紹介する。

 

「使徒たちの中で傑出しており…」とパウロに称賛された人物をめぐる謎

 

パウロはローマ16・7で、アンドロニコとその妻ユニアがイエスのために投獄されたことを述べている。 「私とともに投獄された同胞のアンドロニコとユニアによろしく。彼らは使徒たちの中で傑出しており、私が生まれる前からキリストのうちにいたのです」(NIVから訳出。NIVは、They are outstanding among the apostlesと英訳している)

この聖句の二つの要素は、精査を要する活発な議論の対象になってきた。ユニアは女性なのか、そして彼女は本当に「使徒」だったのか。

最初の質問に関しては、パウロが女性を 「使徒 」と呼ぶことは考えられないという理由で、聖書の翻訳ではこの人物を男性として(ユニアスとsを付けて)扱っていた時期が数百年あった。しかし、聖書学者たちはここ数十年の間に、ユニアがローマ時代に人気のある女性の名前であったこと、一方、ユニアスという名前は全く証明されていないなどいくつかの理由で、女性としてのアイデンティティを再発見している。

また2番目の質問に関しては、パウロはこの夫婦が同胞のユダヤ人であり、自分よりも先にイエスに従ったことを認めている。パウロがイエスを信じるようになったのは復活後間もない頃であることが分かっているので、アンドロニコとユニアは、キリスト教の使徒指導者の「第一世代」に属することになる。

実際、2世紀、3世紀、4世紀のほとんどの教会教父や神学者は、①ユニアが女性であること、②ユニアが使徒であること、を当然のこととしていた。

4世紀の神学者で説教者であったヨハネス・クリュソストムスは、「使徒であるとは偉大なことだが、使徒の中で傑出した存在であるとはなんと素晴らしい賛美だろうか! …実際、この女性の知恵は、使徒という称号にふさわしいとさえ思われるほど偉大だったに違いない」と書いている。同じく教父オリゲネスは、この夫婦がイエス自身によって送り出された72人の弟子の中にいたのでは、と驚きをもって述べている(ルカ10・1、アポストルとは「送り出される者」の意)。

だが、ユニアについての議論でしばしば脇役にされるのは、彼女の投獄とそれが彼女について何を物語っているかということだ。パウロがローマ人への手紙の中でユニアとアンドロニコについて言及したのは、ただの挨拶ではない。ローマの教会のために、勇敢な信仰を持つ模範的なキリスト者と考えていたこの夫婦を意図的に強調したのである。

 

獄中の鎖で復活の力を証し

パウロは、福音宣教の最前線で奉仕し犠牲となったユニアを、夫とともに称賛した。また、福音のために命をかけた教会の指導者プリスキラとアキラ夫婦や、教会の女性助祭であったフィベも称賛し、アリスタルコとエパフラスを「囚人仲間」と呼んでいる。パウロはこれらの人物たちの勇気ある信仰を高く評価し、ある人たちについては鎖につながれた状態での信仰を称賛しているのである。

 

パウロ自身の経験を見ると、彼は何度も投獄されたことを認め、拷問にも言及している。監獄はローマ社会で最も暗く醜い場所である。ユニアのような女性がそこで何をしていたのだろうか。

古代ギリシャ・ローマ時代の何千もの文書の中に、ローマ帝国の牢獄に女性がいたという記録はほとんどない。些細(ささい)な犯罪であれば女性は家に帰され、家族から罰を受けることが多かった。刑務所に入れられたごく少数の女性にとってその環境は恐ろしいものだった。過密状態、新鮮な空気のない暗闇、重くて鋭い金属の手錠はしばしば皮膚を切り裂く。その上、廊下には拷問の音が響き渡り、収監された女性にとって性的暴力の現実は常に恐怖であっただろう。

ローマの刑務所の残虐さは有名である。しかしパウロは、ユニアの投獄を名誉なこととして語り、囚人仲間として表現している。彼は、囚人という語に「捕虜」を意味するsynaichmalōtosという言葉を使っている。イエス・キリストについて公に証言したための投獄を、パウロは霊的な戦いの一形態として理解していたのだ。鎖はイエス・キリストの福音のために束縛されたという輝かしいバッジである。

ピリピ3・10〜11でパウロはこう書いている。「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして使者の中からの復活に達したいのです」と。

ユニアのような初期キリスト教指導者たちは、福音ゆえの投獄の中でこの苦しみの交わりを生きるという明確な特権を得た。イエスとともに、またイエスのためにこのような苦難を受けた人々は、自分の信仰に秘められた力、自分の信念の真実、そして自分のためにまず命を捨ててくださったキリストへの愛の大きさを証明したのである。

パウロにとって、福音にある新しい信仰ほど大きな結果はなく、鎖につながれた福音の捕虜であることほど大きな忍耐の証しはない。クリュソストムスの言うとおり、 その鎖は聖なる遺物としてではなく、公の証しという使命に従うために代価を数え払った証拠として貴重なものなのだ。

2023年04月09日号 12面掲載記事)