「銃を置けば良いのに」

ある日、小学6年生の長女とお昼のニュースを見ていた。詳しい内容は覚えていないが、ロシアのウクライナへの軍事侵攻に関するニュースだった。娘がニュースを見ながら、「早く戦争を終わらせたかったら、銃を置けば良いのに」と言った。もちろん、事はそれほど単純ではないだろう。それでも、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」(マタイの福音書18章3節)という主イエスの教えを思い出した。
今私たちは憲法の危機の時代に生きていると言えよう。
たとえば、「国家安全保障戦略」では、中国・北朝鮮・ロシアの安全保障上の動向について、「これまでにない最大の戦略的な挑戦」、「従前よりも一層重大かつ差し迫った脅威」、「強い懸念」と位置づけ、日米同盟の強化と防衛力の抜本的な強化こそが抑止力になると説いている。岸田首相は記者会見の中で、「この三文書とそれに基づく安全保障政策は、戦後の安全保障政策を大きく転換するものであります」と述べた。その言葉の通り、今後5年間で「敵基地攻撃能力」の保持をはじめ防衛体制を整備し、防衛予算をGDP比率2%に倍増させるという内容は、憲法9条のもと平和国家として歩んできた日本のあり方を根本から覆すものだ。
このような国家防衛戦略の大転換が国会審議もなく、閣議によって決定されてしまった。まさに憲法の基本原理である立憲主義に反するものであると言えよう。国の最高法規である憲法がそんなに軽く扱われてよいものだろうか。

「剣をさやに収めなさい」

日本国憲法が独特で、他に類を見ない平和主義であると言われてきたのは、9条の一項以上に二項の規定である。戦力を保持しない、それから交戦権を認めないということは、素直に読めば、これはおよそ正義の戦争のようなものも含めて一切の戦争を禁止しているということだろう。二度と政府に戦争はさせまいという意志が、日本国憲法の立憲意志であり、憲法解釈の基本である。
この平和主義に立脚した日本国憲法の精神は、イザヤ書2章4節の「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」という「終末的な平和」の預言と軌を一にするものであるように思う。また主イエスは、「剣をさやに収めなさい」と言われた。戦後、日本国憲法が制定されたが、まさに悔い改めの実に他ならない。「戦後日本は憲法九条をもって剣をさやに納め、これに封印した」(荒井献『「強さ」の時代に抗して』)のである。
しかし、今回の安保関連三文書の改訂は、「敵基地攻撃能力(反撃能力)」を保有するものであり、「さやの封印」を解き、再び剣を取る用意を整えたことになるだろう。

「天で行われるように」
「最も小さな者に」

聖書によれば、「剣を取る者はみな剣で滅びる」のであり、軍事力や抑止力によって平和は実現しないのだ。
主イエスに従おうとする人びとは、主イエスが教えた祈りのように、神のみこころが「天で行われるように地でも」行われるよう献身する者たちのことであると言えるだろう。
神の創造したこの世界は、正義が行われる場所、平和が実現する場所、公平かつ公正な扱いがなされる場所、正直さや誠実さに溢(あふ)れる場所であるべきである。神は真に世界を正そうとしておられるのだ。私たちは、神の新しい創造の担い手であるようにと召されているのだ(N・T・ライト『クリスチャンであるとは』)。別言すれば、福音の文化の発展を促していかなければならないのだ。
もちろん、日本国憲法は決して完璧なものではない、、、、、、

2023年05月07日号 04面掲載記事)

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