日本福音主義神学会東部部会 春期研究会発表より
山﨑ランサム 和彦氏(聖契神学校教務主任、日本福音主義神学会東部部会理事)

聖書には、正義を戦争の勝利として描いているような記事がある。それをどのように解釈したらよいのか|日本福音主義神学会東部部会が5月29日、「キリストにある平和」をテーマに春期研究会を開き、「旧約聖書の平和論」を南野浩則氏(日本メノナイトブレザレン教団福音聖書神学校教務)が、「新約聖書の平和論」を山﨑ランサム和彦氏(日本聖契キリスト教団聖契神学校教務主任)が研究発表した。その発表の概要を前後2回で紹介する。

 

神のさばき、キリストの勝利は暴力か

新約聖書の平和論というテーマを、新約の中で最も「暴力的な書」というイメージを持たれているヨハネの黙示録に絞って考えたい。福音主義的キリスト者の中でさえ、黙示録における暴力を肯定する見解がある。例えばベストセラー『レフトビハインド』では、再臨のキリストが神に敵対する人々を文字通り虐殺する様子が描かれている。神の民キリスト者もまた、
神の暴力に参加するという名目で暴力をふるうことが正当化される。

このような現状から2つ問題提起をしたい。①黙示録はキリスト者に、悪に対して暴力を用いて戦う/抵抗するように求めているのか、②黙示録の神/キリストは終末のさばきにおいて文字通りの暴力を用いるのか。キリスト者の勝利と、神/キリストの勝利という2つの主題において、暴力がどのように関係してくるかについて考えたい。

 

黙示録における暴力的イメージの解釈

ユージン・ボーリングは黙示録における暴力的表象を解釈するにあたって、4点を考慮すべきであると述べている。

第一に、黙示録を書いた当時のヨハネと読者の共同体は極度な苦しみの状況にあり、その人々が神の正義を求めるにあたって抑圧者に対する怒りや復讐の感情を表現するのは自然なことである。

第二に、黙示録における暴力的描写のほとんどは、ヨハネ以前にあったさまざまな伝承を流用したものである。その中には、古代近東の戦いの神話、ユダヤ教の黙示文学における「メシア的災い」の図式、聖書における神の戦いやさばきの表象(出エジプトの物語、呪いの詩篇、神顕現の描写など)が含まれる。

第三に、黙示録の暴力的描写において使用している言語は幻視的/隠喩的であり、それらを文字通りに受け取るべきではない。これは信仰共同体内部の者に向けられた信仰告白的な言語であって、敵の滅びよりもむしろ信じる者の救いに焦点を当てたものである。

第四に、黙示録の暴力的な描写を解釈するためには、ヨハネの神学と目的を考慮しなければならない。それは人間の普遍的な罪深さ、悔い改めへの呼びかけと神のさばきを含む。しかし同時に、神は普遍的な救いも望んでいる。ヨハネは伝統的表象をキリスト論的に変形している。

基本的にこのアプローチに同意しつつ、聖書やユダヤ教に由来する伝統的な表現をヨハネがどのように使用しているかに焦点を当てていく。

 

黙示文学の伝統の使用

ヨハネの黙示録がユダヤ教の黙示文学の文学類型に属することは大多数の学者が一致している。しかし、終末とさばきについては、ヨハネが伝統的表象を利用しつつも重要な変更を加えていることに注意する必要がある。

「戦う神」のイメージは、出エジプトやカナン征服に関するナラティヴや詩など旧約聖書にあふれている。神やメシアが平和をもたらす箇所でさえ、暴力的に敵を打倒する内容が含まれている(イザヤ9・3〜5、詩篇46・9〜11ほか)。黙示文学的な箇所では、終末における諸国民との戦いが描写される(ダニエル11章、エゼキエル38〜39章、ゼカリヤ14章ほか)。

初期ユダヤ教においても、第一エノク書90・19ではユダヤ人を表す「羊」に「剣」が与えられ、敵を滅ぼす様子が描かれている。最終的な勝利は神とその天使たちによって達成されるが、神の民の軍事的役割も否定されていない。死海文書の「戦いの巻物」では終末における光の子らと闇の子らの戦いが描かれるが、神の民の軍隊がベリアルに率いられる闇の子らの軍隊を殲滅(せんめつ)する様子が詳細に描かれる。

旧約聖書とユダヤ黙示文学におけるこのような終末の戦いの表象は、黙示録に描かれる終末のさばきの描写と通ずるものがあり、ヨハネはこれらの伝統的な表現を使用して黙示録を書いている。

しかし、ヨハネが伝統的な黙示文学的「表現」を使用しているからといって、直ちに終末の戦いは現実の暴力を用いる戦争であるという「思想」までも無批判に受け継いでいると結論づけるのは早計である。黙示録には、これらの戦いの表象を再解釈するための重要な解釈装置が含まれているからである。それはヨハネの子羊キリスト論である。

 

屠られた子羊としてのキリスト

黙示録の中で「子羊」は29回登場し、28回(7×4)はキリストに用いられている。7は完全、4は世界を象徴する数であるため、リチャード・ボウカムはこの数字の意味を、キリストの「完全な支配が世界規模のものである」象徴と解釈する。この表現は天上の玉座の間の幻を描く5章で初めて現れ、6章以降の終末の審判の描写において繰り返し登場し、新天新地の描写にも登場する。したがって、子羊のイメージは黙示録におけるキリストについての中心的メタファーであると言うことができる。

では、ヨハネがキリストを子羊にたとえる意図は何か。5章が鍵となる。ヨハネは天上の神の御座の幻の中で、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利した」という声を聞く(5節)。「ユダ族の獅子」や「ダビデの根」はユダヤ教において敵を征服する王としてのダビデ的なメシアを連想させる表現であり、神の救いを待ち望む読者の期待に沿うイメージであった。そしてダビデ的な王としてのメシアの標準的な働きは、悪の勢力を暴力的に滅ぼすことだった。

しかし、ヨハネが実際に目にしたのは「屠られた姿で立っている」「子羊」であった(6節)。これは明らかに十字架と復活を表している。

(つづく)

【研究発表】
山﨑ランサム 和彦氏

東京大学教養学部卒。米国のベテル神学校(神学修士)とトリニティ神学校(哲学博士)で学ぶ。専攻は新約聖書学。聖契神学校教務主任、鶴見聖契キリスト教会協力牧師。米国聖書文学会(SBL)会員、日本新約学会会員、日本福音主義神学会東部部会理事。
著書に『平和の神の勝利』(プレイズ出版)、『聖書神学事典』(項目執筆、いのちのことば社)、The Roman Empire in Luke’s Narrative (T & T Clark)、Dictionary of Jesus and the Gospels, 2nd ed. (項目執筆、InterVarsity Press)、訳書にヴォーン・ロバーツ著『神の大いなる物語』(いのちのことば社)、N・T・ライト著『シンプリー・グッドニュース』(あめんどう)ほか。

2023年07月16日号   06面掲載記事)