【憲法特集】憲法前文の非戦の思いを共有 豊川 慎(関東学院大学准教授)
「全世界の国民」の平和的生存権
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。憲法前文における「平和的生存権」である。ウクライナやガザなど世界中で多くの人々の尊いいのちが奪われ続けている現状にあって、「全世界の国民」が「平和のうちに生存する権利」を有していること、そしてその権利は保証されなければならないことを私たちはあらためて思い起こす必要がある。
前文の「平和のうちに生存する権利」という文言は自民党の「日本国憲法改正草案」では削除されていることも見過ごすことはできない。人間のいのちがあまりにも軽視されている状況にあって、今まさに問われているのは「平和的生存権」の内実と具現化ではないだろうか。神の像に似せて創造された人間の尊厳、人権の擁護と実現、それが喫緊の平和構築の課題であることも忘れられてはならない。
永久の権利
日本国憲法97条には「最高法規」の章のもと、基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるとしてその歴史性が記され、「侵すことのできない永久の権利」として基本的人権の永久不可侵性が明記されている。しかし、97条もまた自民党の改正草案において条項ごと削除されている。草案では「天賦人権説」を排除するという明確な意図とともに、現行憲法の前文も全面的に書き改められ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」という文言も消えている。
日本が国際社会の一員として「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(前文)ならば、97条を削除して人権の歴史性を忘却する方向にではなく、日本の過去の歴史を踏まえた「前文」の精神を真摯に捉え、「平和的生存権」という文言に表されている人権としての平和を構築していく責任を引き受けていくことが重要であろう。「平和を実現する者は幸いである」との主イエスの言葉に個々のキリスト者も教会もどう主体的に応答するのか、それがいま問われている。
ニューヨークの国連広場には「イザヤの壁」と呼ばれる壁があり、非戦と平和を願って、英語で次のイザヤ書2章4節の言葉が刻まれている。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」(新共同訳)。キリスト者であり憲法学者の深瀬忠一は、日本の平和憲法はこのイザヤ書の言葉を戦争放棄と軍備不保持の第9条において日本国の最高法規としたのだとかつて論じた。「戦争の放棄」をうたう現行9条が改正草案では「安全保障」と書き換えられ、軍事的安全保障に重点が置かれている状況にあって、イザヤ書の平和のビジョンこそが憲法前文の「崇高な理想」と親和性を持つものであることを強調したい。
平和構築に向けたキリスト教教育
憲法前文が掲げる「崇高な理想と目的」について考える時、1947年に制定された教育基本法の前文をも思い起こす。教育基本法は「教育の憲法」とも言われ、、、、、、
(2024年05月05日号 05面掲載記事)