4月28日、詩画作家・星野富弘さんが亡くなった。七十八年の生涯だった。追悼文を依頼されたが、思った以上に喪失感が大きくてしばらくは地に足がつかなかった。心がふわふわと、どこかその辺りを浮遊している気分が続いた。外に出れば道端の草花に目が行き、何度も一緒に散歩したことや、いろいろと植物解説してもらった時のことが思われてじんわりしてしまう。

4月24日の誕生日に七十八歳になり、29日には結婚43回目の記念日を迎えるはずの前日、28日の主の日(日曜日)に天に召されるとは、さすが体操選手だっただけあって着地点がしっかりしている。

筆者は、1986年5月号から四~五年の間、月刊『百万人の福音』の星野さんの新作詩画の連載を担当した。連載は82年からだったので、担当編集者としては二代目だった。前任者から詩画作品および星野富弘〝取り扱い注意事項〟を聞き、群馬県東村の家に最上級の緊張感をもってご挨拶に行ったことを覚えている。

連載担当中の88年、作家・三浦綾子さんと星野さんの対談集『銀色のあしあと』が刊行された。当時の編集長の祈りと人生を賭けた一大企画だった。筆者もアシスタントとして対談の場に臨み、製作に関わった。対談は夏を思わせるような暑い5月20日。前日、星野さんは少年のように緊張していて、「今からでもやめられないかな…」などとつぶやいていたが、当日は綾子さんのリードによって宝のような言葉の数々が引き出されていった。

その後も、何冊かの単行本を編集させていただいた。星野さんは本を作ることにおいて非常に厳しいので、もちろん苦労も多かった。しかし、一度納得すると「思ったようにやってみな」と任せてもらえたので、実に贅沢(ぜいたく)な時間と経験を頂いたと心から感謝している。

妻の昌子さんが葬儀の挨拶でも引用されていた『星野富弘ことばの雫』ができた時などは、ぽそっと「俺もけっこう良いこと言ってたんだなぁ」と、夫婦合作の本を喜ばれていた。そんな時はこちらもうれしくなって、肩の荷が下りた気持ちになる。

五十年あまり前に大けがをした頃は、「舌を噛(か)めば死ねる…」といつも死を考えていた人が、どうしてこんなに素晴らしい作品を生み出せたのか。神さまのために選ばれた人であったとしても、試練や苦難が大きすぎると思う。けれども星野さんは、自分が詩や文章を書く時の根幹には第一コリント13章の「愛の章」のみことばがあると言われる。苦難を苦難で終わらせていないからこそ、多くの人の心に感動を呼び起こし、苦しむ人の生きる力となれたのだろうか。

星野さんは召されても、作品や言葉は生き続ける。本やネットを通し、アーティストを通してこれからも神さまが世界中に運び続けてくださるに違いない。


写真:小林惠

(2024年05月26日号 07面掲載記事)