《神学/聖書と歴史》パウロは奴隷だったのか?
パウロは「ヘブル人の中のヘブル人」と自負を持ちつつ、なぜ生まれながらローマ市民権を持っていたのか? そんな疑問に対し、歴史的な背景を根拠に、タルソ出身のパウロが奴隷の家の生まれだったからだと見る説を、本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイが報じた。
パウロは奴隷だったのか?
タルソのサウロは奴隷として生まれたという驚くべき議論。
ピレモンへの手紙はパウロの手紙の中で最も個人的なものである。そこにはある物語が描かれている。オネシモという男が主人のピレモンから逃げてきた。オネシモはおそらく家内奴隷、つまり、序列の高いしもべであったろう。
奴隷のオネシモが
パウロに仕えた訳
オネシモはパウロを探したが、主人のもとに戻るつもりだったと主張する学者もいる。ウェストミンスター神学校カリフォルニア校の新約学名誉教授であるスティーブン・M・ボーは、「オネシモが意図的にピレモンから逃げ出しパウロのもとに走ったのは、主人と奴隷の間のいさかいについて、ピレモンに代わって執り成しを求めるためだった可能性が高い」と書いている。
なぜオネシモが奴隷に戻りたがるのか、現代の私たちには理解しがたい。だが、説明は簡単だ。歴史家のジェームス・S・ジェファーズによれば、新約聖書時代のグレコ・ローマ世界の中で、「富裕層や中程度の富裕層の家に属する奴隷は、ある意味で、街の自由な貧しい人々よりも良い生活を送っていた。そのような奴隷は、通常1日3食の食事、宿泊施設、衣類、健康管理が保証されていた。多くの奴隷は自由な身分の貧しい人々よりも教育を受けていた」とジェファーズは言う。
とはいえ、オネシモの動機に関する伝統的で最も一般的な解釈は、彼がピレモンの金を取り戻るつもりはなかったというものだ。
組織力と商才のある奴隷の多くは、主人の事業を監督する役目を負っていた。彼らはオイコノモス、つまり執事(エコノミーの語源)として知られていた。裕福な実業家でパウロの改宗者であったピレモンは、自分の事業のために何人もの奴隷を持っていただろう。主要な貿易拠点に向かうルートでは強盗の危険があるため、ピレモンのような人物は自分たちで商品を持って旅をすることはなかった。その代わりに、オネシモのような信頼できる奴隷の執事に仕事を任せるのである。
しかし、オネシモは金を持ってピレモンのもとに戻る代わりに、金を懐に入れてローマ行きの船に飛び乗ったのかもしれない。そしてすぐにパウロのもとに行き、獄中でパウロに仕え、パウロの指導の下でキリスト信者になった。
彼がパウロを探して逃げ出したのか、それともローマの地元クリスチャン・コミュニティを通して偶然パウロのことを知ったのかは定かではない。しかし、家出した奴隷が、疑惑をかけられて自宅軟禁され、国家の手先に囲まれている宗教家のそばで長い時間を過ごすというのは奇妙なことだ。なぜ、オネシモは危険を冒してまでパウロのもとに来たのか。
両親は〝反乱の村〟
からタルソへ連行
イエスが誕生する前の数十年間、イスラエル北部には熱狂的な精神が漂っていた。この地はローマへの抵抗と反乱の温床であり、時には武装蜂起や、悪質なローマ税が保管されていた倉庫からの窃盗もあった。反乱を起こした指揮官たちは磔刑(たっけい)や絞首刑で処刑された。そして、ローマは、それだけでは不十分であることを知っていた。反乱を鎮圧するには、共同体全体を始末しなければならなかった。
そこでローマは、古代史家ヨセフスが伝えているように、反乱軍の村落全体を略奪し、その住民を奴隷として多くの奴隷市場で売った。この時代の奴隷商人はしばしばローマ軍団の後を追って遠征し、戦利品を集めてローマの財源を満たした。
ガリラヤ地方のある村は、キリストの復活から100年後、ローマを苦しめることになる。それは、はるか北のギシャラ村である。紀元前末期から紀元後初期にかけて、そこで何らかの違反行為があった後、ローマ軍はギシャラの人々を一網打尽にし、馬車で連れ去り、奴隷にした。初代教会の記憶が正しければ、パウロの両親もその中に含まれていた。
4世紀にラテン語の聖書ウルガタを完成させた学者ヒエロニムスは、パウロの手紙に関する四つの注解書を執筆した。『ピレモン記』注解には、初代教会のパウロに対する記憶が記されている――
使徒パウロの両親はユダヤのギシャラの出身で、ローマの手によって全州が荒廃し、ユダヤ人が世界中に散らばったとき、キリキアの町タルソに移されたという。
ヒエロニムスの注解書の別の翻訳では、ラテン語の”fuisse translatos”をより正確に表現している。それによると、パウロの両親は「タルソに連れて行かれた」。つまり、意に反して「連れ去られた」のである。この婉曲(えんきょく)的な言い方は、ローマがパウロの両親に対して、反抗的な人々にするような対処をしたということを意味している。
ドイツの学者テオドール・ツァーンによれば、両親は「捕虜」となり、タルソスで奴隷として売られたという。パウロはそのとき子どもだったかもしれないし、両親の奴隷義務の途中で生まれたのかもしれない。
ローマの奴隷制度はアメリカの家畜奴隷制度とは違っていた。「ローマ市民はしばしば奴隷を解放した。都市部では、奴隷が30歳になるまでに解放されることが多かった」
古典学者メアリー・ビアードによれば、同時代の多くの人々はこの奴隷から市民権への道をローマの成功の際立った特徴と見なしていた。彼女はこう書いている。「紀元2世紀までには、ローマ市の自由市民人口の大半が先祖のどこかに奴隷を持っていたと推測する歴史家もいる」
これが、多くの聖書翻訳が「奴隷」ではなく「召使い」または「しもべ」という言葉を使う理由だ。新約聖書の奴隷制は、現代人が思い浮かべるような奴隷制度ではなかった。ローマ帝国の奴隷制には一般的に終わりがあった。そして多くの場合、奴隷にされた者の子どもたちにとって、社会的地位向上の機会さえ生じた。
もう一人の初代教父オリゲネスの研究者たちは、紀元386年に書かれたパウロの両親に関するヒエロニムスの記述はオリゲネスを翻訳したものだと言う。
このことは、パウロの遺産に関する伝承をヒエロニムスの時代ではなく、オリゲネスの時代、200年代初頭に位置づけることになる。オリゲネスは、ガリラヤに隣接しパウロが2年間を過ごしたカイザリアで執筆していた。彼の周りで口承伝承を守っていた年配の語り部たちは、教会の第二世代、第三世代の指導者の下で育ったはずだ。
これは「ピレモンへの手紙の最古の解説書である」とハイネは書いている。ドイツの学界では、パウロが被支配奴隷であったという考えは150年間も語り継がれてきた。フォン・ハルナックやザーン、それにマルティン・ディベリウスといった20世紀の著名な学者たちは、ヒエロニムスの話を信用した。ドルトムント大学で教鞭をとる神学者ライナー・リースナーは、「パウロの両親がガリラヤ出身であるという主張を真剣に受け止めている」。
紀元前4年、ローマのシリア総督ヴァルスが町全体を焼き払い、2千人を十字架につけた反乱があった。ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で、ガリラヤの都市では「住民を奴隷にした」と書いている。これが正しいとすれば、タルソのサウロが20年後、10代の若者としてエルサレムに現れたという事実は理にかなっている。
使徒22章28節でパウロは、自分はローマ市民として 「生まれた」と言ったが、gennaoというこの単語は、出生または養子縁組を意味する。解放されたローマの奴隷はしばしば主人の家族の養子となり、ローマ名と市民権を与えられた。
サウロはキリスト信者になってからパウロという名を名乗ったのではない。サウロという名は改宗後も使われ続けている(使徒11、13章)。ヘブル語の文脈ではサウロというヘブル語の名前を使い、グレコ・ローマ的な文脈ではパウルスという名を使っている。
姓の由来がどこにあるにせよ、パウロの父親は「ローマ人の主人に召し抱えられ、自動的に(ローマ)市民権を得た」とリースナーは語っている。
「奴隷」の用語に
固執する手紙文
パウロは奴隷の言葉に固執する。著作の中で彼は絶えず奴隷について、束縛について語っている。手紙の冒頭で最もよく使われるのは、「キリストの奴隷パウロ」である。ガラテヤ人への手紙の最後にパウロは「この身にイエスの焼き印を帯びている」と言っている。パウロが使ったギリシャ語のスティグマータ(stigmata)は、「体に永久に残る印や傷跡、特に奴隷の所有権を示すために使われる〝烙印〟を意味する」。
もしパウロが奴隷の家に生まれたなら、所有者の印として肉体に烙印を押されたことだろう。パウロはキリストの新しいレンズを通して古いものを解釈する達人である。パウロのアイデンティティーは依然として奴隷である。ただ、今や彼は真の主人が誰であるかを知っている。パウロはキリストの奴隷なのだ。
(2024年06月23日号 06面電子版に全文掲載)