写真=南相馬市原町の冨澤接骨院鍼灸院

つづき)父とは震災後、避難のことでもめた。「私が父との関係を良好な状態にしていたならば、父も私たちと行動を共にしようとしたのだろうが…。今までの経緯を考えると、私の心の中で父を赦すことができないのが原因なのかもしれない。当時、父は週に2、3度治療に来ていたにもかかわらず、私は貝になり、ほとんど父と顔を合わせて話をしていなかった」と、冨澤利男さん(鍼灸院・接骨院院長、福島県南相馬市)は話す。

2002年頃から母は頭痛と不眠症で悩み始め、薬を服用するようになった。冨澤さんは薬を減らすように父に進言してきたが、「父は頑として受け付けなかった。母に薬を飲ませて眠らせていれば昼間、父は自分の好きなことができることも一つの理由だった。父は、母から薬をせがまれればあげてしまうという悪循環に陥っていました」

冨澤さんは自宅と実家を行き来して母の看病をした。「母としては虐待を受けていると受け止めているのだろう。父のことを毛嫌いし、聞くに堪えない暴言を吐く。世話をしてくれる家内にも私にも暴言を吐きました」。そのような中、11年3月11日を迎えた。

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山形で父母と避難生活をしたが、4月23日に父母は実家に戻った。「父も私と一緒に生活することは耐え難かったのでしょう」

それでも、日曜には母を教会の礼拝に連れて行った。教会で病気の母は温かく迎えられた。母は礼拝の出席を続け、薬の依存も少なくなった。

震災から1年後の3月11日、母は81歳で受洗した。「薬物依存からもほぼ解放され、『廃人』のようだった母が人間に生まれ変わった。本当にうれしく感謝でした」。葬式についても、「教会でしてもらいたい」というはっきりとした意志を示した。

その後も、日曜ごとに父の家から母を迎え、礼拝出席を続けた。
15年4月頃から母の体調は悪化した。5月10日が最後の教会での礼拝となった。6月には入院。家族で見取りを相談し、6月20日から、母は冨澤さん宅で看病することになった。

21日は母の意識がはっきりしていた。枕元で母と祈った。「心から祈ることはできなかったけれど、母に言った。『今まで、じいちゃんがばあちゃんの面倒を見てくれたのだから、きちんとお礼を言わなければ駄目だよ』と」。父は毎日看病に来ていたが、母は暴言を吐いていた。

7月9日、母の看病をしていた父が「ばあちゃん、ばあちゃんが」と号泣して出てきた。「なんと母が父に感謝の言葉を伝えたのです。『じいちゃん、今までありがとう。あとどれくらい生きられるか分からないから言うけど、じいちゃんは優しかったな。ありがとう』と」。

その後、母の症状や暴言は戻るが、「1回で良い。感謝の言葉を言うことができた。奇跡だ! 本当に聖霊に満たされたとしか言いようがない」と冨澤さんは振り返る。1週間後の16日、母は静かに息を引き取った。当初キリスト教式の葬儀は兄家族や父から反対されていたが、不思議と道が開かれて実施できた。

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再び父との関係が課題になった。「私はとても父のために福音が届くようにお祈りすることができなかった。これは、クリスチャンとして大きな課題だと思っていた。到底無理なことで死ぬまでそれはできないことだと思って過ごしていました」 そんな中だったが、牧師は「お父さんを後押ししないといけいよ」とアドバイスし、父に福音を伝え救いに導くようイベントのたびに案内を出してくれていた。

18年夏、母の納骨式の時、父に今後について聞くと、「ばあちゃんの所に入らなくてはならないべなあ」 とあいまいに答えた。「そうじゃなくて、自分はどうしたいの? ばあちゃんの所に一緒に入りたいの?」と聞くと、「そうしたい」と父は心を決めた。

その後、父は定期的に礼拝に出席し、12月の洗礼式が決まった。「私も10月頃から、不思議なことに嫌々祈っていた父の救いも、聖霊に満たされ素直に祈れるように変えられた」と話す。12月8日、父は87才で受洗した。

翌年1月から父は体調を崩し、介護施設に入所した。20年に入り、コロナ禍で面会が制限される中だったが、最期の面会は穏やかな姿を見ることができた。6月21日、父は88歳の生涯を終えた。「かつては様々な衝突があったが、お互いにわだかまりなく話をして別れることができたことは、本当に私にとって何にも代えがたい救いだった」と感謝する。(つづく)
【高橋良知】