青木義紀

青木 義紀
日本同盟基督教団
希望聖書教会牧師

私 はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているの は、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 ガラテヤ人への手紙2章20節

「もし、…復活がないのなら」(Ⅰコリント15章12〜19節)、キリスト教信仰は画竜点睛を欠く。そのとき私たちは、「信仰」という中身のない空箱を抱えて、その中身に絶大な希望を抱く哀れな狂信者にすぎません。
しかし復活には、12弟子やマグダラのマリヤに代表される女性たち、「五百人以上の兄弟たち」(Ⅰコリント15章6節)の多くの目撃証言があります。ま た、復活を認めたくない人たちが、必死に隠蔽工作した事実があります(マタイ28章11〜15節)。加えて、復活を信じる絶大な数の信仰者が、2千年の歴 史を貫いて世界各国に存在し、今も存在しつづけていることを思う時、私たちは常識では考えられない復活の出来事が、あの時あの場面においては、本当に起き たと考えざるを得ないのです。そして、その復活したキリストと、私たちが信仰において結び合される時、私たちの内にも、あの復活のいのちが脈を打って躍動 するのです。

復活のいのちにあずかるために

私たちが復活のいのちにあずかるために、最も 大切なこととは何でしょうか。それはあまりにも当たり前すぎて見落としがちですが、「死ぬ」ということです。一度死ぬことなしに「よみがえり」は決して起 こりません。ところが私たちは、罪や自我にまみれた現行のいのちに死ぬことなしに、都合よく復活のいのちにあずかろうとします。
しかしこれでは、決して復活のいのちにはあずかれません。自分を本当に「生かしたい」のなら、自分に「死ななければならない」のです(マタイ16章25 節)。パウロは言いました。「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」 (ガラテ2章20節)。

自分らしさは失わない!

キリストのために「自分に死ぬ」こと、 「自分を捨てる」ことは、自分らしさを失うことだと考えている人がいます。違うのです! 私たちはもともと、神によって創造されました。キリストも、この 創造の御業に参与した創造主です(コロサイ1章15〜17節)。そのキリストが「私たちのうちに生きておられる」ということは、私たちを創造した本来の目 的にかなって、私たちを生かしてくれるということです。
そのとき「私」は、他の人に取って代わることのできないユニークな存在として、最も「私らしく」生きることになるのです。
キリストと結ばれる前の私たちだって、自分の生きたいように生きていた、自分らしく生きていたと思うかもしれません。しかし私たちは、他人の目を気にしな がら生きています。流行に遅れないようにせかされて生きています。しきたりや慣習、家族や身内の面目や体裁、自分の立場や身分など、様々なものにがんじが らめにされて生きているのが現実です。
しかしキリストと結び合されるならば、それらが決して絶対的なものではなく、唯一の絶対的な方の前に相対的なものであると認識できます。そして私たちのま わりにある、ありとあらゆるものが相対的なものであることを知る時、今度は私たちがそれらを、絶対者の御心の視点から捉えなおして、それらを生かしていく 存在とされるのです。それは、「地を従えよ」(創世記1章28節)と言われた、尊い務めへの回復です。

復活のいのちに生きるとは…

こ のように、キリストと結び合され、復活のいのちに生きるとは、私たちの日常をどのように変えるでしょうか。しばしば人は、キリストに結び合されて生きる生 き方として、世の中から撤退し、社会と断絶して生きることを選び取っていきます。残念ながら、キリスト教の歴史の中には、そのような生き方を選びとって いった信仰者たちがいました。
パウロは、Ⅰコリント15章の長く深遠な復活の議論の最後に、次のように言います。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあ
ってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15章58節)。
復活の信仰は、決して私たちをカルトやセクトにしません。私たちを地上の現実から引き離して、将来にのみ生きる現実逃避家にしないのです。復活の信仰は、 必ず最後には「ですから」と言って、私たちの目を現実に引き戻します。そして、今いるその場に「堅く立って、動かされることなく」生きるようにというので す。いま与えられている主の業に誠実に励むようにと勧めるのです。
地に足をつけて、日常の務めに励むところから、すでに復活のいのちは始まっています。そこにはもちろん、苦労や悩みがあります。しかし、福音はそこで私たちに約束します。あなたがたの労苦は、決して主にあってむだではないと。