全文公開 ペンテコステメッセージ 錦織 寛 日本ホーリネス教団東京中央教会牧師 幻を見るのに、年齢は関係ない
「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2・17)
錦織 寛 日本ホーリネス教団東京中央教会牧師
○ビジョンがなければ教会でない
祈り、聖書、犠牲一歩踏み出して
今 日はペンテコステです。ペンテコステは教会の誕生日なのです。ただし、ペンテコステが最初から教会の誕生日だったのではありません。もともとペンテコステ という祭があったのです。それは50日目の祭、別の言い方では7週の祭の日でした。それは小麦の収穫の始まりの時であり、エジプトから救い出されたイスラ エルの民がシナイ山で律法を与えられた日でもありました。その日に祈っていた120人の人たちの上に聖霊が注がれて、教会はスタートしました。それは新し い契約の時代の始まりを意味し、また豊かな収穫の始まりでもありました。
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その日、ペテロは何が起こったのだろうと集まってきた人々に対して次のように答えました。
「これは旧約聖書に言われていたことなのだ、『終わりの時には、私の霊をすべての人の上に注ぐ、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る』」
聖霊が与えられると何が起こるかというと、幻を、夢を与えられた。そして、教会がスタートしました。まさに幻・ビジョンがなければ教会ではない! とも言えるのです。神様は私たちに聖霊を注いで、私たちを「幻を見る者」へと変えてくださいます。
けれども幻を見るとはどういうことなのでしょうか。それは決して神がかりになってそれまで見えなかった幻が見えるようになるというのではありません。また、よし何かやってやるぞと希望をいだくのともちょっと違います。
幻を見る者たちとは
1、祈る者たち
主イエスの約束を信じ、待ち望んで祈っていた人たちの上に聖霊は注がれました。そしてこの日、スタートした教会の大きなしるしの一つは「祈り」ということ だったのです。幻を見る者とは祈る者です。祈りのないところに幻・ビジョンはありません。教会で言うビジョンとは決して何かの人間的な目標とか期待とかと いうようなものではありません。
人間的には夢や希望を持ちづらい現実がありました。イエスは天に帰られ、残された弟子たちには大きな使命が与えられていました。でも自分たちにどうしろと いうのでしょう。周りを見ると失望する。でも正直に自分と向き合うとそこにあるのは絶望だ。どうしたらよいのでしょう。不安がいっぱいだったことでしょ う。しかし、そんな時にも私たちには向かうところがあります。
私たちは神様に「助けてください」と出る。そのような中で神は私たちに幻を与え、夢を与え、救ってくださいます。祈りのないところから出てきた幻は本物ではありません。私たちは神を信じ、神に頼る者たちとして、何より先に祈る者でありたいと思います。
2、御言葉を悟る者たち
聖霊が注がれたとき、ペテロは聖書の御言葉を悟る者とされました。使徒の働き2章には、この日に語られたペテロのメッセージが残されています。この日の メッセージはとても印象深く人々の心に残ったのでしょう。ペテロは決して、人々が感動するような大演説をぶち上げたというわけではありませんでした。ペテ ロは旧約聖書をひもといて、十字架にかかって死に、3日目によみがえれた主イエスこそが、まさにそこに語られている救い主であることを指し示していったの です。
聖霊は私たちに御言葉を悟らせます。私たちの見る夢・幻、それは御言葉に裏付けられていなければなりません。幻とは、御言葉が新しく開かれていくというこ とです。ああ、この聖書の御言葉はつまりこのことを言っているのだと、聖霊があなたの心を照らし、聖書の言葉が、今21世紀に生きる私たちにどんな意味が あるのかを明らかにし、私たちの心に言葉に裏付けられた新しい確信と新しい迫りが与えられるのです。そして御言を通して、幻を与えられるためには
①まずとにかく御言葉を読むこと
②読んだ御言葉をしっかり心に刻むこと
③与えられた御言葉を証すること・語ること
が大切です。
3、犠牲を払って従う者たち
幻を見るのは決して楽しいことばかりではありません。そこには犠牲が伴うからです。実際、幻など見ないほうが楽なのです。幻を見たペテロは、カイザリヤに いた百人隊長コルネリオの家を訪ねます。後でそのことを知ったユダヤ人たちからペテロは大きな非難を浴びることになります。幻を見たパウロは、主イエスを 信じ、彼に約束されていた地位・名誉・輝かしい将来などすべてを捨てて、命がけで福音を語る者となります。
パウロはトロアスで「マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と叫ぶマケドニヤ人の幻を見た時、まだ行ったことのない地に足を踏み入れていきます。幻を見るということはあなたが信じて、犠牲を払って、一歩を踏み出していくということでもあるのです。
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幻を見るのに、年齢は関係ありません。自分が生きている間にその幻が実現していかなかったとしても、聖霊によって見せられた幻は生き続け、受け継がれてい くからです。初めは一人の幻かもしれません。しかしもしそれが神から与えられたものなら、それはやがて教会の幻となっていくことでしょう。
聖霊がすべての人に注がれて、すべての者が幻を見る者へと変えられていく。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、今も私たちを幻を見、夢を見る者としてくださるのです。
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