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2011年6月に93歳で逝去した永瀬隆さん

1957年の公開された戦時中の泰緬鉄道建設をとおして人間の尊厳と戦争のみじめさを描いた映画「戦場にかける橋」(第30回アカデミー賞作品賞受賞作品)。2014年に公開された泰緬鉄道の建設に捕虜として従事させられたイギリス人将校と当時施設にいた日本人通訳者の姿を描いた映画「レイルウェイ 運命の旅路」。日本でも好評を得た2作品で日本軍通訳者ナガセのモデルとなった永瀬隆さんと、永瀬さんの“贖罪と和解”の戦後人生を共に支えた妻・佳子さん夫妻の人間ドキュメンタリー。国家間の政治レベルでの戦後補償は事務的に履行されたのだろうが、泰緬鉄道に動員された現地のタイ人や日本軍捕虜になった連合国軍元軍人らに寄り添う“贖罪と和解”のための戦後処理を個人で担ってきた永瀬さん夫妻。国の誇りは戦力を示すことではなく、心を開き愛を示す国民の姿にあることを教えられる気取りのない力作ドキュメンタリーだ。

【あらすじ】
1942年7月、旧日本軍はビルマ・インド方面への陸上補給露を確保するためタイ(漢字表記:泰)とビルマ(漢字表記:緬甸、現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道の建設に着手する。英国の植民地時代、10年はかかるとの試算し断念された415キロの山岳難ルートをわずか1年3か月余りで完成させた。だが、この突貫工事のために英国・豪州、オランダなどの連合国捕虜6万人と現地のアジア人労務者25万人以上が動員された。そして、戦時下での食糧、薬品不足の中の長時間労働に加え、コレラ、赤痢などの伝染病が蔓延。捕虜約1万3000人、アジア各地から集められた労務者数万人が犠牲になった。 当時、タイのカンチャナブリ憲兵分隊に英語通訳者として配属されていた永瀬隆さんは、捕虜収容所や工事現場での強制労働、拷問などの現場を見ていた。

戦後まもなく、連合軍派遣の“白骨街道”と呼ばれた墓地捜索隊に同行した永瀬さんは、鉄道建設工事に動員された捕虜や現地の犠牲者たちが受けた悲劇の全容を目の当たりにし、慰霊への思いに駆り立てられていく。1964年、一般日本人の海外渡航が自由化されると、岡山県倉敷市で英会話教室を開いていた永瀬さんは妻の佳子さんと共にタイへ巡礼の旅に出掛け、以後毎年、佳子さんとの巡礼を続け、生涯に135回のタイ訪問を数えた。

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クワイ河橋にみごとな虹がかかるのはめずらしいという

1964年から始められた永瀬さんと妻・佳子さんのタイ訪問の旅には、大きく3つの願いと目的が見て取れる。
<1.慰霊と贖罪の旅>永瀬さんは、敗戦直後に連合軍の墓地捜索隊に同行して造設されたカンチャナブリ連合軍共同墓地への墓参にとどまらず、野ざらしになったままの旧日本軍戦死者や現地アジア人犠牲者らの遺骨収集にも尽力した。日本政府は、靖国神社へ戦没者名簿を奉納し祀ってはいても海外戦死者の遺骨収集などには手を付けていない時代。国が放置していることを個人として取り組んだ。その慰霊と贖罪の思いは、クワイ河平和寺院、ファイポーン村に日本軍戦没者ためのパゴダと慰霊塔、クンユアム星露院(念仏堂)、スリーパゴダ峠国境平和祈念堂(第二星露院)などの建立を果たしていく。
<2.連合軍捕虜との和解の旅>永瀬さんは、1976年と95年に連合軍元捕虜と日本側の元軍人とその関係者がクワイ河鉄橋で和解の再会をすることを企画し実行する。当初は、日本側の元将兵から「なぜ、そのようなことをする必要がある」と非難され、連合軍元捕虜からも憎悪の眼差しを向けられる。それにもかかわらず、元捕虜ら個人個人との和解に努力し、映画「レイルウェイ 運命の旅路」の原作者エリック・ロマックスや「捕虜のときに受けた虐待は決して忘れないし許さないが、あなたは私が手を握りたいたった一人の日本人だ」とカンチャナブリで再会したときに語ったトレバー・デイキンなど、心を分かち合える深い友人を得ていく。
<3.タイヘの恩返し>永瀬さんは、日本へ復員する際に空腹のままでは気の毒だとして飯盒に詰められたお米と砂糖をタイの人たちから支給された有難味が骨の髄にまでしみこんだという。その感謝の念は、倉敷市の自宅にタイからの留学生を幾人お受け入れて面倒を見ていた。さらには、貧しいため学校へ行くことだ出来ず、看護師になりたい夢を諦めかけていた少女の学費全額を援助したのを契機に、幾人もの学生たちに奨学金授与を続け、やがてタイの財団法人「クワイ河平和基金」創設(1986年)へと導いた。同基金の支援は、2011年までにのべ2000人を超える看護学生らに贈られている。そのほか1997年以降にカンチャナブリ県の無医村のために移動医療支援を続けるなど、永瀬さんのタイへの恩返しの活動は燎原の火のようにタイの人々の心にも燃える何かを灯していく。
だが、2009年。永瀬さんの“贖罪と和解”の思いを受け入れ、寄り添い、共に行動してきた妻・佳子さんが入院した。佳子さんは、最後の巡礼になるのを覚悟して永瀬さんとの135回目の巡礼へ出発する。結婚47年目にして出掛けるハネムーンのように…。

生前の永瀬隆さんと佳子さん夫妻
生前の永瀬隆さんと佳子さん夫妻

【みどころ・エピソード】
満田康弘監督(瀬戸内海放送報道制作クリエイティブユニット岡山本社副部長)は、45年続いた永瀬さん夫妻のタイ巡礼の旅を、放送記者時代の1994年以降20年間にわたって永瀬さん夫妻を取材したテレビマン。タイの人たちから「お父さん、お母さん」と慕われている二人の会話や飾らない自然な姿を丁寧に描いている。また、日本未公開の映画「エンド・オブ・オール・ウォーズ」(01年作、アメリカ映画)で永瀬役を務めた俳優・佐生有語との交流やエリック・ロマックスの妻パトリシアさんほか多くの人たちの言葉からも永瀬さん夫妻の心情が浮き上がってくる。

晩年、永瀬さんはクワイ河橋から望むみごとな虹を見て「こんなのは初めてじゃ」と子どものようにはしゃぐ。その感動的なシーンから本作のタイトルは付けられた。「クワイ河に虹をかけた男」永瀬隆さんを取材し続けた満田監督は、「戦後70年が経過し、一部には日本国憲法の役割は終わったなどという言説が散見される昨今である。しかし、私には現憲法の精神は我が国においては『終わった』どころか『まだ始まってもいない』としか思えないのである。自らを救いたいという個人的な感情が活動の原点だったと永瀬さんはよく口にする。だがそれはやがて社会的に大きな広がりを持っていった。それこそ、普遍性の故である」と資料の「監督のことば」に記している。

仏教国タイの人々の心に生き、元連合軍捕虜の人々との和解を願い続けた永瀬さん。太平洋戦争が開戦した1941年に青山学院文学部英語科を繰り上げ卒業した経歴を見るとき、普遍的な“贖罪と和解”を求め続けたもう一つの要因が、心の奥底に息吹いていたようにも思わされる。 【遠山清一】

監督:満田康弘 2016年/日本/119分/サイズ16:9/ 配給:きろくびと 2016年8月27日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開。
公式サイト http://www.ksb.co.jp/kuwaigawa_movie/index.php
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