5月28日号紙面:創刊50周年を迎えて 聖書を土台とした多様性を 編集長 髙橋昌彦
クリスチャン新聞は主の恵みと読者の皆様のご支援により創刊50年を迎えました。心より感謝申し上げます。
その「創刊号」は1967年5月に、ブランケット(全紙)判の紙面で、それまで月刊で発行されていた『福音ジャーナル』を母体に、それを改題する形で誕生しました。日曜礼拝を中心とするクリスチャンの生活サイクルに合わせ、11月からは週刊へと移行しました。
教会生活に根ざした聖書信仰を目指して
当初から編集方針の土台として据えられたのは「聖書信仰」です。その最初の紙面には、10月に開催される「ビリー・グラハム国際大会」を伝えるトップ記事とともに、3つの指針、①聖書信仰の確立、②宣教のビジョン、③実際生活の指針、が掲げられました。それは「聖書は誤りなき神のことば」と純粋に信じるクリスチャンが生きていく上で、教会生活を中心として世の中で生起してくるさまざまな問題を福音主義的立場から捉え、信仰者としてどのように向き合い、考えるかの情報を提供していこうとするものでした。
過去の紙面を、1面の見出しだけ見ても、「高校生非行」「靖国法案」「聖書信仰」「フォークソング」「大阪万博」「ジーザスムーブメント」「共産圏教会」「連合赤軍派事件」「川端康成の死」「沖縄のジレンマ」「聖書の無誤性」「一千万救霊」「異端・カルト」など、きわめて多岐にわたっていることがわかります。世界的な広がりとともに日常的な地域性を有し、信仰者ゆえの課題から政治社会的な問題まで、いずれも「聖書は何を語り、いかに考えよと教えるのか」を問う、神様の前に誠実で真摯な歩みを願うクリスチャンを読者として、クリスチャン新聞は発行され続けてきました。
もちろん、50年という時間は一様ではありません。初期の新聞で目に付く超教派の大規模集会の記事からは、キリスト教会がさらに前進していこうとする熱気のようなものが感じられます。世の中は、安保闘争や大学紛争に見られるように、騒然とした空気が満ちていました。いずれにしろ、教会の内外を問わず、人々が物事を真剣に考えようとしていた時代だったのかもしれません。
東西冷戦が終わりを告げた1990年前後からは、二項対立という単純な図式が崩れたゆえの変化が見られます。福音に門戸を開いた旧社会主義国に宣教がなされる一方、民族主義の台頭による紛争は激化し、キリスト教に象徴される西欧的な価値観が忌避され、かつ、西欧諸国でも教会は衰退し、かつて絶対的であったキリスト教的な価値観は多様化する価値観の中で相対化されていきました。
日本でも、高齢化、少子化といった社会の流れと軌を一にするように、福音派の教会にかつてのような教勢の伸張は見られなくなりました。しかしその一方で、74年のローザンヌ誓約で表された「包括的」な福音理解が広く認識されるようになったのも、この頃からです。教会が、魂の救いだけにとどまらず、福音の真価が問われるものとして、環境問題や人権問題などの社会的な問題にも、自覚的に取り組んでいこうとする動きが広がってきたことが紙面からうかがえます。
時代の閉塞感に向き合って
そのような中、2007年に実施された「現代日本の教会の実情を知る」アンケート調査(第5回日本伝道会議プロジェクトと本紙の共同企画)では、ほぼ半数の教会が「閉塞感がある」と回答しました。おそらくは今も基本的に同じ状況に日本の教会は置かれているように思います。
しかし、阪神淡路大震災、特に東日本大震災以降、それまでになかった教会の動きが現れています。その報道からうかがわれるのは、それまでは人々が教会に来るように招いていた教会が、必要を覚えている人のところに自ら出て行ってその必要に応えようとする、立ち位置の変化であり、その働きを地域教会の横のつながりの中で行おうとする、教団教派を超えた教会協力の動きです。
「福音派」を超えて
それは「包括的」な福音の具体的な提示であり、キリストのからだとしての教会のありようを示しているとも言えます。そのような教会の姿が現されているところでは、もはや「福音派」というような言葉で教会をくくることは意味を持たなくなるでしょう。
そのような変化の中で、クリスチャン新聞が、キリスト教会の内に向けても外に向けても、自らを規定するものはやはり「聖書信仰」です。聖書の持つ価値観、世界観を共有している限り、私たちの目の前に現れる具体的な問題にどう対処するかは、様々な立場があることを互いに認め合うことができるはずです。そのようにしてクリスチャン新聞は、50年間紙面を作り新聞を発行し続けてきましたし、これからも同じ姿勢であることに変わりはありません。
新たな働きを起こす触媒として
一つひとつの記事は、神様がこの地で何をなしてくださったかの証しであり、その記録でもあります。また新聞がメディア(媒体)である以上、触媒のようにそれに触れた人に何かの変化を起こします。その記事なくしては出会うことがなかったであろう人と人とがつながり、そこからさらに新しい働きが教会の中に起こされていくことを神様のわざとして期待し、そのように用いられる新聞を目指してまいります。