5月28日号紙面:福音主義神学会西部部会 「諸力としての罪」と「人間が犯す罪」二項対立的でなく統合的アプローチを 春期研究会議で山口氏
福音主義神学会西部部会2017年度春期研究会議が4月24日、兵庫県神戸市垂水区塩屋町の関西聖書神学校で行われ、山口希生氏(東京基督教大学共立基督教研究所研究員)が「諸力としての罪─ユダヤ黙示思想の文脈の中のパウロから考える」と題して講演した。
講演に先立つ開会礼拝では、今回のコーディネーターの一人である安黒務氏(一宮基督教研究所主宰)が、エペソ4章16節を引用しつつ、「有機的結合性」をキーワードに今回の研究会への期待を述べた。
続いて山口氏による基調講演。まずパウロ書簡の中で「罪」という語が二通りの意味合いで使われていることが示される。一つは、人間には神から与えられた戒めをすべて守り行う義務があり、それらの戒めを破ることを「罪」と呼び、神からの刑罰を受けるという理解。もう一つはローマ7章20節に典型的に見られる、「罪」があたかも意志を持ち人間を虜にする存在であるかのような記述である。前者が「神と人」という二者の関係で罪の問題を考察するのに対し、後者は「サタン、悪魔」というもう一つの独立した行動主体を視野に入れて考える「ユダヤ黙示的世界観」に基づく。したがって後者によれば、人間の救いとは「サタンの支配」という奴隷的状況から解放されて「神の支配」に移されることとなる。山口氏によれば、パウロ書簡には「サタン」「悪魔」という語はあまり登場せず、一見すると罪の問題をもっぱら「神と人」の二者の間の法的問題として考えているように見えるが、実際には神に反逆する霊的存在(諸力)が前提とされており、特にローマ5〜8章では「罪」という言葉がそうした存在を指していると言う。つまりパウロもまた「ユダヤ黙示的世界観」の中で罪の問題を考えていたことになる。さらに山口氏は、アウレン、シュヴァイツァー、ケーゼマン、ベカー、マーティンといった20世紀の聖書学者たちの贖罪についての論考を紹介した上で、パウロの神学を理解するにあたっては「あれかこれか」という二項対立的なアプローチではなく統合的なアプローチこそが重要であり、「諸力としての罪」と「人間が犯す罪」との関係についても統合的に理解するほうが妥当ではなかろうかと述べた。
午後は「トランプ大統領」「牧師夫人」「いやし」「悪」「教会」「自由」といった多様なテーマが取り扱われた分科会をはさみ、基調講演に対する応答。坂井純人(神戸神学館教師)、吉田隆(神戸改革派神学校校長)、正木牧人(神戸ルーテル神学校校長、西部部会理事長)、川向肇(神戸県立大学大学院応用情報科学研究科准教授)の四氏が神学的、実践的、聖書的な見地から基調講演への応答をそれぞれの立場に基づいて述べ、超教派の研究会ならではの多様な視点と神学そのものの幅広さを感じさせた。
続く質疑応答は、集められた質問を司会者が順次読み上げ、山口氏が答えるという形で行われた。矢継ぎ早に繰り出される「千本ノック」のような質問に、すべて正面から即答していく山口氏。聞く側にも答える側にも、限られた時間内で一つでも多く、少しでも深く学ぼうとする真摯な姿勢がうかがえ、非常に見応えがあった。
最後に、今回のコーディネーターを代表して、鎌野直人氏(関西聖書神学校校長)が「聖書の世界観を理解するためには、自分が当たり前だと思っている考え方を常に問い直し、ものの見方を変えなければならない」と総括し、熱い研究会は幕を閉じた。(レポート・山口暁生=いのちのことば社出版部編集者)