9月17日号紙面:瀧浦氏「教会がこの世の権力とどう闘うか」 キリスト王権こそ闘いの土台 キリスト王権こそ闘いの土台
2017年09月17日号 1面
「第25回信州夏期宣教講座─日本の宣教史を再考する─」(同実行委員会主催)が、8月21日から23日まで長野県上田市の霊泉寺温泉中屋旅館で行われた。今回のテーマは「『すべての者の上におられるキリスト』〜格差社会に抗って〜」。瀧浦滋氏(日本キリスト改革長老教会岡本契約教会牧師、神戸神学館代表)「キリスト王権」、6面で安海和宣氏(ビサイドチャーチ東京牧師)「牧師として議員会館に足を運んで」、相馬伸郎氏(日本キリスト改革派教会名古屋岩の上教会牧師)「政治的ディアコニア」を採録する。
キリストへの信仰には、聖書の聖書神学的基本構造である「キリストの王権(着座)」の信仰が、復活信仰と一体のものとして重要である。旧約聖書の詩篇においては、「主は王である」という告白が繰り返される。捕囚後、特に帰還後の預言者や聖書正典結集の土台は「メシヤの契約と王権」だった。
マタイの福音書のテーマも「王の到来」であり、復活の主の宣教命令は「神の国による主の王権成就」宣言だった。今、復活のキリストは、仲保者なる王として御座に着き、教会とクリスチャンのために働き人を立てて世界を支配しておられる。私たちは、この復活と仲保者王権の現実と希望の上に立って、この世で召され生きている。当然、日本人である私たちは、この主の復活の王権を直接当てはめ、証しし、生きるべき者だ。
従って、聖書信仰がなければ、聖書をまっすぐに信じ、キリストの十字架への信仰と共に、その復活と王権への福音信仰をもてなければ、この世の権威に対し、キリスト者として政治的に一貫して戦うことも成り立たない。信仰に一貫する幻を持ち、粘り強く戦い続けることはできない。
歴史上の教会のこの世の権力の誤りに対する真の戦いは、福音信仰に土台があった。初代教会はローマ帝国に対し、甦りのキリストの王権が事実いかに勝っているか確信して粘り強く戦い抜いた。イギリス宗教改革史で長い王との対立を通し、後世のために人権や自由を勝ち取って残した教会は、甦りの王キリストにこの世で仕えることを心から信じるピューリタンたちの福音的信仰によって戦った。日本でもキリストの再臨の事実に言及したホーリネスが弾圧を受け証しを残した。韓国では、素朴な聖書改革信仰の訓練を受けた長老教会が中心となり、日本の政治的弾圧の下で戦った。「キリストの王権」こそ、この教会のこの世の権威に対する戦いの土台となる聖書教理である。
従って、この日本の国で「キリストの王国」にどう仕えるかは、日本宣教の根本問題である。その根底に認識すべき戦いとは? なぜ日本の教会は骨抜きにされ崩壊するのか? 理由は「カイザルの国」の崇拝に飲み込まれる偶像礼拝の圧力にある。プロテスタント日本伝道の困難は、100年以上にわたる偶像崇拝を国家神道を超宗教とし迎合したという、冷徹な事実の構造だ。単なる教会成長では乗り越えられない。
例えば宗教的自由と宗教的寛容の混乱がある。宗教的自由とは天与の人権であり、為政者は認識し擁護せねばならぬ義務があるのに、宗教的寛容は、宗教の領域においても為政者が至高であるとの考えに立つ。その概念は、①クリスチャンの教育上の権利の否定、②市民的忠誠の保証としての(偶像)崇拝儀礼への参加の強要、③キリスト教宣教団体と教会が為政者の支配を受けるようにという要求、といった官吏による制限に帰結する(J・ヴォス)。国家神道は宗教ではないし、国家を宗教を超越した超宗教とは我々は認めない。国家は宗教的団体を統制する権限はない。神のことへの国家の侵入は教会にあるキリストの王権の侵害だ。
では私たちキリスト者、教会は何をすべきか。私たちの仲保者(救い主)、教会を守るために国々の王でもあられるキリストの支配があるのだから、まさに国家社会のために「祈る」ことに戦いの中心はある。キリストの王権という保証をもって祈る時、祈りはパワーがある。そして、どんな時にも、地上から天の御座に目を注ぎ、「信じ礼拝」し揺るがない。支配しておられる王に期待し、御心に沿って「発言し行動」する。私たちのすべての社会的アジェンダの根拠を洗い直し、一般的な政治的主義主張を移入して聖書の言葉をまぶして提供するような安易な方法を戒め、聖書的神学的に明確なものに変える。その軸となるのがキリストの王権の神学だ。