10月29日号紙面:宗教改革500年 それぞれの視点からそれぞれの取り組み
10月31日、500年目の宗教改革記念日が迫る、一年を通してたような教派、団体で記念の取り組みが実施された。カトリックも含め、プロテスタント諸派それぞれの観点、歴史学の視点による諸集会での議論、提言から現代における宗教改革の意義の理解を深めたい。
日本聖書協会記念講演会で マールブルク大学・バルト名誉教授 賜物結び、証しする改革を
9月18日、日本聖書協会主催による「宗教改革500年記念講演会」が東京・千代田区の朝日ホールで行われた。講師は、ドイツマールグルク大学名誉教授のハンス=マルティン・バルト氏。「現代世界における宗教改革の意義」と題して、現代世界における宗教改革の意味、ルターの聖書観の有効性、宗教改革が残した遺産について語った。講演内容を抄録する。
−−私は、ルターの宗教改革の主要概念として、次の5つを挙げたい。
①神体験の媒介としての聖書−神は聖書を通して語り、私たちは神の語りかけを聞く。その時必要となるのは明快で適切な聖書の翻訳である。
②価値観の逆転としての十字架の神学−イエスの十字架の下では、私たちの価値観の逆転が起こる。そこで私たちは「無」に等しいが、その「無」こそ神の働きが始まるところである。
③生活の源としての驚くべき恵み−恵みとはルターにとって、罪が赦され、私たちの全存在が新しくされることであった。
④教会と社会の新しいモデルとしての全信徒祭司性−私たちは互いにとっての司祭であり、自分の見識と経験によって互いに助け合う。これがより意味深い仕方で実践される場は、礼拝をおいて他にはない。
⑤世を支配する神の2つの仕方(二王国論)−私たちはキリスト者であると同時に市民である。キリスト者は、自分が被る悪とあらゆる不正に忍耐しつつ、為政者によって隣人にもたらされた悪にはうのである。
これら5つの主要要素は、直接的、間接的な帰結を伴った。教会では伝統的な位階制度が崩壊した。礼拝では、ラテン語ではなく、ドイツ語が語られ、会衆自らが神への賛美を歌った。聖書がドイツ語に翻訳され、教理問答書が作られた。社会的には、弱者の援助のため共有基金の設立が提案され、世俗的職業が司祭修道士と同様に評価されるようになった。芸術には新たな役割が与えられ、教会音楽は以前よりも高い価値を帯びた。
現代世界にとっての意義を考えるなら、ドイツ農民戦争後、争いあった者どうしが、世俗の法に基づいて互いを認め合うよう強いられた経験は、対立する者どうしの共生の可能性につながるだろう。
さらに、改革を始めたルターの勇気は、今なお意味を持つ。その改革は限定的であったかもしれないが、彼は実行をためらわなかった。また彼は、すべての人は独自の賜物を与えられており、それを活用しなければならないと知っていた。そして「自分に対する神の計画を捜し求めなさい」と結論する。言語の役割を強調し、職業及び知的養成を重視し、それらを生活のすべての場面で考えたことも意義深い。他宗教にとっても、根源的で本質的なものは何かをあらためて探るための刺激となった。現状に留まらず、常に絶対者へと開かれているようにという招きは、諸宗教を結び合わせる。
我々キリスト者にはどれほどの改革が必要か。私が最も問題に感じるのは、福音派とリベラル派の大きな違いである。両者は、それぞれの賜物と能力を結び合わせながら、世に向けて共通の愛の証しを行うよう努めるべきである−−
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講演後、会場を帝国ホテルに移して、「エキュメニカル晩餐会」が開催された。江口再起氏(日本ルーテル神学校教授)による「贈与の神学者ルター」の講演、小田彰氏指揮によるMCSメサイアコーラルソサイェティ合唱団の賛美が行われ、最後は、日本キリスト教協議会議長の小橋孝一氏、日本福音同盟副理事長の米内宏明氏、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団理事長の寺田文雄氏がそろって登壇し、祈祷を行った。【髙橋昌彦】
中村敏氏 プロテスタント信仰と日本人を講演 「世に抗して聖書に立つ」
9月16日、大阪聖書学院(岸本大樹学院長)では秋の特別講座を行った。第1回となる今回の講師は新潟聖書学院院長の中村敏氏。岸本学院長は「500年前の宗教改革が、今の日本の私たちとどのように関わるのかを考えたい」と、講座の意図を紹介。中村氏は「宗教改革と私たち−それは何を目指し、何を私たちに語るのか?」と題して講演。日本人のご利益信仰、日本人の精神構造との対比で、ルターの宗教改革を語り、そこから見えてくる日本の状況、キリスト者の課題について言及した。【髙橋昌彦】
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中村氏は、ご利益信仰は、「恵みによってのみ救われる」というキリストの福音をはばむ最たるものの一つだと言う。「民衆が宗教に期待するのは、立派な教理ではなく、商売繁盛・無病息災・家庭円満。それが与えられるならば、信仰の対象は問題ではない。そのためにはお布施をし、時には難行苦行もする」
そして同様の考えは、カトリック教会の煉獄の教理を背景に、宗教改革当時の民衆の素朴な信仰にも根付いていた、と言う。当時の教会は、寄付や奉仕、死者のためのミサが、煉獄における霊魂の滞在期間を短くしたり、軽減できると教えていた。それが「贖宥状(免罪符)」に発展していった。「贖宥状は、死んだ家族が煉獄で長く苦しまないようにという、民衆の素朴な宗教心に付け込んだものであり、まさにご利益信仰。これは、信仰のみ、恵みのみ、によって与えられる、キリストの十字架の贖いによる救いを根本から否定するものであり、ルターには絶対に許すことのできないものであった」
ご利益信仰とともに、日本人の精神構造として「世間(体)」に中村氏は着目する。それは、絶えず周りを気にし、大勢からはみ出ないことが求められる、強力な「同調圧力」とも言える。「聖書を絶対的な基準として生きるとき、日本では摩擦やを覚悟しなければならない。日本における福音宣教とは、まさに日本人の精神構造そのものへの挑戦ということができる。これは戦前の天皇制軍国主義時代だけの話ではない。昭和天皇重体の時に全国で自粛ムードが一気に高まったことからも、依然、日本人の価値観、行動基準は変わっていないと言える」
ルターは、自分の信じるところを「95箇条の提題」として発表し、それ故に国会で厳しく審問され、神聖ローマ帝国皇帝からその主張の取り消しを迫られる。中村氏は次のように講演を締めくくった。「ルターの答えは、聖書によって自分の誤りが証明されない限り、何も取り消さない、というものであった。ここに見られるのは、人に従うよりは神に従うべき、という初代教会の姿勢である。日本が『戦争のできる普通の国』を目指して確実に進んでいる現在、私たちキリスト者は、聖書にしっかりと立ち、現状を真摯に見つめていきたい。キリスト者が『地の塩、世の光』として生きることは、多くの場合、世の大勢に抗して進むことになる。そしてそれこそが、『聖書のみ、信仰のみ』と言ったルターのプロテスタント信仰の原点である」
宗教改革各テーマをリレーメッセージ “聖書に立ち聖霊に生きる” 宗教改革500周年大会
アルゼンチンのリバイバリスト、カルロス・アナコンディア氏(救いのメッセージ伝道団主宰伝道師)を招き、9月15日から18日まで東京・中野区のなかのゼロホールで開かれた、ペンテコステ派教会の協力による「宗教改革500周年大会 聖書に立ち聖霊に生きる」(同実行委員会主催、10月8日号既報)では、日本人牧師による宗教改革をテーマにしたリレーメッセージ、セミナーがあった。【中田 朗】
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16日には宗教改革の主要なテーマについて、日本人牧師が10分ずつのリレーメッセージを行った。
妹尾光樹氏(JFGA・純福音成田教会牧師)は「信仰義認」について。「ルターの95箇条の提題のテーマの一つは贖宥状(免罪符)で、その効力について論じ合おうというものだった。だが、その提題がヨーロッパにどれだけ激動をもたらしたかルターは全く知らなかった」。「信仰義認は今日もプロテスタント教会の土台。人助けの善行はすばらしいが、イエス様を信じる信仰にまさる善行はありえない」と語った。
佐藤成紀氏(フォースクエア・ホープチャペル所沢牧師)は「聖書信仰」について。「教会は伝統的な形をひたすら守り続ける人の集まりだったが、ルターはその形の権威から解放した。形より御言葉の権威のほうが上だと断言し、ドイツ語の聖書も出版した」。だが「聖書のみを権威とする考え方は、別の形の束縛をもたらした」と指摘。「神様が私たちに語られる方法は、聖書と説教のみと多くの人々は感じた。だが、20世紀初頭に始まった聖霊の働きはその考え方が違うことを明らかにした。神様は今なお様々な方法で私たちに語りかけている」と語った。
中見透氏(TPKF・御殿場純福音キリスト教会牧師)は「万人祭司」について。「ルターが万人祭司の根拠とした聖書の言葉はⅠペテロ2章9節。御言葉を通し、当時の階級社会の中で、すべての人が平等であり神の前に祭司であると語られた。アナコンディア先生は『私は去って行く。残るのはあなた方だ』と、クリスチャン一人一人が日本のためにとりなして祈ること、良き知らせを宣べ伝える必要性を訴えておられたが、これこそ今日における万人祭司の意味だ」と強調した。
稲福エルマ氏(NHIA─J・新宿シャローム教会牧師)は「トランスフォーメーション」について。「500年前の宗教改革は、まさに世界を、歴史を変えた大きな出来事だったが、その変革は500年前に終わってしまったのではない」と強調。「千700年代にはきよさを求めるリバイバルが起こり、800年代には福音運動が盛んになり世界宣教にまで広がっていった。900年代には、ペンテコステ運動を通して聖霊の力の回復が起こり、もっと自由な生きた礼拝を捧げるようになった。今も教会を改革し続けておられる神様に、500年前に始まったトランスフォーメーションの御業を祈り求めよう」と勧めた。
細井眞氏(アッセンブリー・十条キリスト教会牧師)は「新しい賛美」について。「ルターは礼拝を改革しようと自国語で賛美するようにした。人々は一緒に賛美できるようになり、心からの礼拝を捧げられるようになった」と語った。
18日には、「宗教改革と今日の教会」をテーマにセミナーが開かれた。
大坂太郎氏(アッセンブリー・ベテルキリスト教会牧師)は「3つの『のみ』の今日的意義」と題して講演。聖書のみ、恵みのみ、信仰のみを取り上げ、「この3つの『のみ』に生きたルターの生涯は苦難の連続だった。誤解され、破門され、幽閉され、何度もいのちの危険にさらされた。だが彼はそのただ中で喜ばしく、大胆に、ユーモアを絶やさず生き抜いた。それを実現させたのが『聖霊』の力である」と強調。「ルターに続く改革者たちの言葉に『御言葉によって改革された教会はまた御言葉によって改革され続ける教会だ』というのがあるが、その言葉を現実のものにするためには聖霊が必要。この記念大会を機に全キリスト教会に与えられた聖霊の働きと満たしをますます慕い求めよう」と語りかけた。
永井信義氏(福音の群・東北中央教会牧師)は、マタイの福音書9章17節から「新しい革袋」について講演。「神様は皆さんに新しいぶどう酒を与え、新しい革袋として用いようとされている。しかし、新しい革袋は再生産していかなければいけない。皆さんの教会で、新しい革袋を育てていかなければいけない。そのことをしっかり受け止めよう」と語りかけた。
エキュメニカル研究所所長ディーター氏が講演 一致と平和「出会うことから」 日本基督教学会で宗教改革500年記念特別プログラム
日本基督教学会第65回学術大会では、宗教改革500年記念特別プログラムとして、特別講演、シンポジウムを9月29、30日に東京・三鷹市のルーテル学院大学で開催した。29日は、特別講演「宗教改革とエキュメニズム、その到達点、課題と展望」として、 「一致に関するルーテル/ローマ・カトリック国際委員会」でコンサルタントを務めた、テオドール・ディーター氏 (ストラースブルク・エキュメニカル研究所所長)が語った。同委員会には、日本からも徳善義和氏(ルター研究所前所長)、鈴木浩氏(同研究所所長)が続いて参加してきた。
ディーター氏は、宗教改革後の、『ルーテル教会信条集』にみられるルター派のカトリック批判、カトリックのトリエント公会議によるプロテスタント排除、その後の国際情勢の中での対立を振り返った。
20世紀に入ると、カトリックによるルターの再評価がなされた。特にドイツでは戦時中の交流や戦後の移民などにより接触の機会も増えた。第二バチカン公会議後の1960年代後半からカトリックとルーテル教会の対話が始まり、「双方への断罪が実際に相手側に当てはまるか」ということが議論されるようになった。
特に「信仰義認」の問題が議論される際、互いが表現する「信仰」や「愛」が異なった意味をもっていること、異なる思考様式で語られていることに注意が払われた。 ディーター氏は異なる言語の関係に例えて、「文法は非常に異なっていたとしても、一定の内容は一つの言語から他の言語に移せると私たちは考える」と話した。「エキュメニカル対話ではルーテルとカトリックは、たとえ彼らが同じ単語を使ったとしても、異なる言語を話していると認める。内容について合意するだけで十分であり、同じ表現にまで合意する必要はない」として「幅のある合意」を説明した。 このようにして99年に、カトリックとルーテル教会により「義認の教理に関する共同宣言」が発表された。
その後は宗教改革500年をカトリックとルーテル教会が共同で記念する動きが起きた。昨年、スウェーデンのルンドでは、教皇も参加して共同の祈りが開催された。祈りでは感謝で始まり、悔い改め、将来へ向けた一致への責務などが語られた。
最後にディーター氏は「過去は不可変だが、どのように想起するかは変えられる」と期待を述べた。
カトリック側からは司祭の山岡三治氏が、第二バチカン公会議以降のカトリックの変化を紹介した。「かつて聖職者が全権をもっていたが、信徒により委員会が組織され、教会運営の多くを担うようになっている。また教会で聖書を中心とした講座が実施されるようになった」と言う。また平和への期待も述べた。
ディーター氏は平和のために、「出会うことが重要」と答えた。ドイツの国政選挙で難民を排除する党が躍進したが、その党に投票した地域に難民が少なかったことを例に挙げ、「難民と出会う機会が少なかったことが大きい」と指摘した。さらに「相手の関心は何か」という相手の他者性を認めること、赦し、赦される経験をすること、難民救助など、具体的な共同の奉仕をすることなどを勧めた。【高橋良知】
大澤、江口、深井、西原各氏が発題 ポスト近代での可能性
2日目30日に行われたシンポジウムのテーマは「宗教改革とポスト近代」。日本ルーテル神学校校長の石居基夫氏の司会により、シンポジストとして、大澤真幸(社会学博士)、江口再起(日本ルター学会理事長)、深井智朗(東洋英和女学院院長)、西原廉太(立教大学副総長)の4氏が発題した。
大澤氏は、近代資本主義を準備した重要な要素としてマックス・ヴェーバーが重視したカルバンの予定説を取り上げ、宗教改革がポスト近代の中で意味を持つか否かは、予定説が取り逃がしたもの=キリスト性をいかに復活させるかにかかっている、と言う。「予定説のもとでは、神が何を予定しているかを人間は把握できないが、唯一確実なことは、神がいるということ。その神が人間として受肉し、死ぬということは、ある意味、挫折を経由して、再生したり、変形したりしうる神を想定するということ。それこそがキリストの受肉の意味であり、そこにこそ、真正の〈自由〉の可能性がある」と述べた。「ポスト近代の幕開けと言うべき構造主義は、歴史(通時態)に対する構造(共時態)の優位を説くことで、『進歩する歴史』という近代の見方を相対化して見せたが、構造そのものにまれる歴史性を見逃していた。構造が転換すると、現在を見る目が新しくなるだけではなく、過去も未来もその見え方が変わってしまう。その歴史を見る視点の変更を要求する行動こそが、真の自由の行使といえる。そこを取り戻したとき、宗教改革、キリスト教の核の部分はポスト近代を超える思想としてよみがえる可能性があるのではないか」と問うた。
江口氏は、「ルターの脱構築」と題して発題。そこには、ルターが脱構築した、ルターを脱構築する、の2つの意味があるという。「宗教改革の三大原理である『信仰義認』『聖書の権威』『万人祭司』について言えば、ルターは、信仰、聖書、教会をめぐって脱構築をしたと言える。その3点をめぐって我々がさらにルターを脱構築するならば、恵みのみ(恩寵義認/贈与)、キリスト中心性(キリスト論/可能性の中心)、脱『教会・伝道の絶対化』(エキュメニズム/共生)となる。しかしこれらは、ルターが脱構築したことを徹底させたものと言え、まとめてみれば『ポスト近代』に向かうキーワードは『贈与』と『共生』である」と話した。
深井氏は、ルターの改革について2つの点を挙げる。1つは聖書を解釈する自由。これは教会に分裂を引き起こす。ルター自身そのことに気付いていて、晩年は聖書を「閉じた」。もう1つは、その改革が神聖ローマ帝国の領主たちの宗派決定権、あるいは選択の問題となったので政治化し、保守化したこと。それは、国家に寄り添う、政治的に使いやすい宗教である。ドイツルター派は以降どの時代でもそうだったし、今も変わっていない。あえてルターの改革の現代的意義を挙げるとするなら、今日に「共生の作法」を教えてくれていることだと言う。「改革の結果、多くの対立が生まれ、戦争が起きたが、それでも意見の異なる人間と隣同士で生きていかなければならない。その経験は、分裂を抱えた社会に一つのモデルや提案ができる」と語った。
西原氏は聖公会の立場から宗教改革を考えた。宗教改革とは、ルターだけではなく、複数であり、多様。特に「英国宗教改革」は抽象的な論理よりも実際的有効性を重視する。論理的体系的神学や、教義を形成することに重きを置かない。基本は人間による歴史的伝統を基礎としながら、神の啓示の真理性を新たな時代の文脈に適応させること。あらゆる絶対主義や原理主義を否定し、聖書、伝統、理性を規範としながら、異なる立場、神学、伝統の中から、それぞれ特定のものを権威づけてきたものを可能とする。宗教改革、近代、ポスト近代と、明確にその神学的スタンスを区分することすら無意味な宗教改革もある。「そもそも宗教改革以前の中世、古代の遺産も私たちのキリスト教は明確に並存し続けている。そういうキリスト教とポスト近代を接合させて論じようとするこのシンポジウムの主題そのものが破綻しているのではないか」と投げかけた。
各派の歴史専門家が 「資本主義の精神」を検証 キリスト教史学会でシンポ
キリスト教史学会は第68回大会で、宗教改革500周年記念シンポジウム「ヴェーバー『倫理』論文とキリスト教史学」を9月15日、東京・渋谷区の聖心女子大学で開いた。20世紀を代表する社会学者マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を題材に、各専門家が最新の研究成果を持ち寄り、プロテスタント史とヴェーバー論文の意義を考えた。
同学会会員の大村真澄氏はヴェーバー論文でプロテスタントの職業倫理の根拠となった、「召命」や「職業」を表すドイツ語のBerufに注目。ルターのBeruf使用の在り方への従来の批判を、ルターの著作から検証し、ルターが世俗の職業に宗教的意義や倫理的性格を与えたことを評価した。
梅津順一氏(青山学院院長)は、英国人リチャード・バクスター著『キリスト教指針』を中心にピューリタニズムの在り方を考察した。個人にとどまらず、社会形成を志向した「統御」という生活態度や、市場での利益追求は「他者の必要に答える」姿勢で勧められていたことを紹介。「宗教的理想が意図せざる結果として資本主義の精神となった」と語った。
洗礼派、バプテスト派については大西晴樹氏(同学会理事長、明治学院大学教授)。ヴェーバー論文では、この項について、クェーカー派の記述が中心だったこと。カルヴァンの予定説を補強する文脈であること、信教の自由につながる寛容というテーマにヴェーバーが注目したことを紹介した。
ドイツ敬虔派については猪刈由紀氏 (上智大学講師)。ドイツ敬虔派がルター派内の運動にとどまり、資本主義の発展への貢献は不十分だったというヴェーバーの論旨を説明。しかし猪刈氏は、ドイツ敬虔派内でのピューリタン寄りの功績があったことを指摘した。
メソジストについては馬渕彰氏(日本大学教授)。ヴェーバーはメソジストを天職観念に新しい影響を与えなかったと低評価した。ジョン・ウェスレーの説教は評価しつつも、改変して引用していた。馬渕氏はこの批判を検証。またメソジスト史の近年の研究から、メソジストの多様な実態も明らかにした。
全体を山本通氏(神奈川大学名誉教授)がコメントし、会場でも質疑応答がされた。最後に大西氏は、ヴェーバー論文を通して、キリスト教史のみならず社会とキリスト教史両方の視点から考えていく意義を話した(「ヴェーバー」の表記は同学会に合わせました)。【高橋良知】
カトリックと改革派 行き来する多様な姿
15日には、キリスト教史学会で公開討論「宗教改革500年を記念して−カトリックとプロテスタントが共存する今」が開かれた。パネリストは木ノ脇悦郎(元福岡女学院院長)、坂野正則(上智大学准教授)の両氏。
木ノ脇氏は、宗教改革に大きな影響を与えつつも、カトリック内にとどまった人文学者の代表としてエラスムスを紹介した。特に著作の対話編、対話集などに、贖宥状、教皇の権威など、後にルターが提起した様々な問題が表れていたことを明らかにした。一方で、改革派が実行した聖像破壊に対する批判もしていた。
「エラスムスの本質は人文主義。徹底した理性的判断によって、教会や社会のあるべき姿を模索しようとしたのではないか。教派性にとらわれず、源泉としての聖書原典の再興のために生涯をささげつつ、時代の問題性を提示しようとした」と評価した。
坂野氏はカルヴァン登場前のフランス初期宗教改革思想のあらましを語った。当時のフランスは、北東はネーデルラント、ラインラントに隣接して「新しき信心」運動につながり、南はイタリア半島から人文主義の影響があった。それらにより聖書説教を軸とする「モーの説教者団」という福音主義運動が形成された。同団には、イグナチオ・ロヨラに共鳴する人、宗教改革急進派のツヴィングリと接点を持つ人、司教に止まる人など多様な人々がいた。ところが同団に対しては、ルター派の嫌疑など弾圧が起きた。
国王フランソワ1世と姉のマルグリット・ダングレームは「モーの説教者団」と交流し、保護する。同団の解散後も、福音主義運動への支援を継続した。「カトリック教会に属しながらその宗教的感性はプロテスタントとの『中間地帯』にあった」と指摘。福音主義運動に関わった人々の中にも、司教にとどまる人、改革派に合流するもの、改革派と合流した後、カトリックに戻った人など多様な在り方を紹介した。「16世紀前半までは、プロテスタントの組織もまだ固定されず、普遍的な教会を取り戻そうという動きがあった。ところが100〜200年すると宗派は固定していった」と述べた。会場からの討論を通しても政治的立場と信仰の内実、異端の問題、中間地帯や寛容と不寛容の問題、など議論された。【高橋良知】