千葉県柏市在住の能瀬敏夫さん(98)=単立・筑波福音キリスト教会員=は、旧満州で終戦を迎え、以後4年にわたるシベリヤ抑留の経験をもつ。能瀬さんは、その体験を『哀しき夕陽』(新風社)=写真左=につづっている。
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 チチハル陸軍病院の主計として勤務していた1945年8月9日、ソ連軍が参戦。満州中央銀行でお金をおろし、病院に戻る途中、ソ連機を目撃した。「ふと見上げると遙か稜線を飛行機雲が流れ、それを認めた瞬間、重爆発音がずしりと腹に響いた。…ソ連機が北満の古都斉々哈爾(チチハル)に落とした最初の爆弾だった」
 10日未明、在院患者を二梯団に分けて後送することに。「時々ソ連機の爆音が上がり、照明弾が流れ星のように夜を裂いた。そんな中に定められた通路を担架が黙々と往来した」と状況を描く。
 能瀬さんは、南満州に向けて移動中、ハルビン駅頭で終戦を知り、既に撤退した哈爾濱病院跡に病院を開設。その数日後、ソ連軍がハルビンに入った。「その日から病院には警護と称して、ソ連軍の軍曹以下十名ほどの衛兵が置かれたが(中略)間もなく衛兵を無視して外からの侵入者が増え、朝から酔いどれ兵隊が所構わず歩き回り、手当たり次第に発砲し、略奪するようになった」。衛兵が看護婦を追い回す、女性の叫び声が聞こえるなど、日本人女性にとって修羅場だったと回想する。
 翌年の2月、院長以下病院の主力に移動命令が出され、シベリヤへ移送された。以後、オブルチア、チョープローゼル、ビロビジャン、ナホトカと各地の収容所を転々とすることになる。(8月12日号で詳細)