メッセージ:大坂太郎氏「分断された世界を統合する神の愛 失われた息子たちの物語」
6月14日から16日まで、長野県北佐久郡軽井沢町の恵みシャレー軽井沢で開かれたいのちのことば社スタッフリトリートで、大坂太郎氏(日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団山手町教会牧師)が講演。ルカの福音書15章1~32節をから「神の愛~分断した世界に統合をもたらす唯一の回答~」と題して4回にわたって語った。その講演要旨を紹介する。
1.「探し続けること」と「待ち続けること」─神の愛の二つの側面
2018年07月15日号 07面
3つの失われたものの譬えが語られる。第1は「失われた羊」の譬え。牧畜に馴染みの無い我々日本人には分かりづらいところがある。「1匹のためになぜ99匹を置いていくのか」「残された99匹は危険な目に遭うのではないか」という疑問が生まれる。
しかし、羊の習性から考えれば、この羊飼いのとった行動は決して99匹に対する責任放棄ではない。羊は家畜だ。飼われている、群れているのが羊の普通の状態であり、そこでは安全が確保されていると言える。反対に羊飼いから離れ、群れから迷った1匹は本来羊のあるべき姿とは到底言えない。犬なら野生化するだろうが、羊には出来ない。一匹では生きていけないのだ。だからこそ羊飼いは群れている99匹を置いて、失われた一匹を見つかるまで必死に探すのだ。この熱情こそ愛の表現である。愛があれば探し続けるのだ。
第2の譬えで羊から銀貨に変化する。動物からモノへの変化であり、それは価値というものを想起させるのに有効に機能する。とはいえ「無くしたものを探し出して喜ぶ」という筋立ては引き継がれている。「聖書新改訳 2017」では「ドラクマ銀貨」と訳されているが、1ドラクマの当時の価値は大体労働者1日分の給料と考えられている。日本円なら1万円といったところか。そう考えると銀貨を無くした女の必死さもよくわかる。まだ9枚(9万円)持っているのだから1枚(1万円)なくしてもいいとはならない。だから彼女は必死になって、見つかるまで探す。薄暗い当時の家のこと、彼女はランプをつけ、それこそ地べたに顔をすりつけて探したのではないか。それは銀貨に価値があるからである。見つかると、近所の女たちを呼んで「一緒に喜んでください」というのは、ある意味当然なのだ。
しかし、「放蕩息子」の名で呼ばれる第3の譬えではかなり様相を異にしている。父は放蕩三昧の弟息子を、羊や銀貨のように捜しただろうか。自ら遠い国に出向いて行き、大捜索をした形跡は無い。捜し出して無理やり連れて帰るようなことはしない。息子が帰ってくるのをひたすらに「待ち続ける」。そして帰ってくれば、駆け寄って抱擁する。
この「待ち続ける」父の姿は、兄に対しても一貫している。弟が帰ってきたその晩、宴会が開かれている事情を知った兄は、もともとあった怒りが爆発し、宴席を拒否して、意固地になって外で立っている。彼には父が許せないのだ。
そんな兄息子を父はなだめ、祝宴に加わるようあれこれと説得を試みる。彼の立場からすれば、父の権威、力で兄を無理やり家の中に引き込んでも良かったはずだ。「中に入れば幸せだ」とわかっていても、父は忍耐深く説得を重ねて「待ち続ける」。なぜ、羊や銀貨のように、探し出して連れ帰らないのか。それは人間はモノでも動物でもないからだ。
愛は関係概念であるから、一方通行ではなく、応答を必要とする。父は、兄の怒りがやみ、自ら祝宴の扉を開けることを、心と体の向きが転回(回心)するのを待っているのだ。「お父さん、僕が悪かった。僕は弟の帰還を素直に喜べない人間だ」という言葉がなければ、無理やり祝宴に引き入れたところで無駄であり、それは愛とは呼べないシロモノなのだ。愛するとは、「探す」という能動的なものと「待つ」という受動的なものが統合されたものだ。熱心に探して相手のことを待ち続けつつ、探し続けて寄り添う。それこそ分断した人間関係、分断した世界に統合を取り戻す唯一の方法である。
それには途方も無い時間と狂えるような忍耐が必要だ。拙速、無理やりはダメである。しっかり探すことは大事だが、同時に忍耐深く待たなければならない。何しろ相手は人間だ。痛み、破れ、切れた人間関係を結び合わせるためにはしっかり「探し続ける」ことと忍耐深く「待ち続けること」の両者が必要なのである。この両者が総合されるとき、そこにキング牧師のいうアンチテーゼを内包する強固で真実な愛が生まれるのである。この物語のラストシーンはかのレンブラントの絵とは異なる。父は兄と共に暗がりにおり、闇を共有しながら兄に呼びかけ続けているのだ。畢竟愛するとはそういうことだ。私たちも聖霊の助けにより、キリストによりあらわされた父の神の愛を伝え、生きるものでありたい。
2.「弟」をプロファイリン グする─分断をもたらす罪の諸相①
2018年07月22日号 07面
この説教では「弟息子」の姿を素描することに努める。プロファイリングにも似たやり方である。見えてくるのは人間社会に深刻な分断をもたらす根深く、醜悪であり、かつ解決を必要としている罪の諸相である。神の愛を語る前に、私たちは人間の罪の現実を見つめねばならない。罪に無自覚なまま神の愛を歌うことは拒否されねばならない。「友よ、この調べにはあらず」(北森嘉蔵)である。
自己中心
この物語は弟が父に生前贈与を求めることに始まる。当時のユダヤではこれは一般的なことではなく、むしろ礼を失する行為であった。またこの願いは自己中心的である。「金は欲しい、そして自由になりたい」という彼の要求は自由を得るためのリスクを自分で引き受けようとする真実なものではない。必要な金は親の遺産を当て込めばよいと考えているのだ。彼には父がどのような苦労をして財を成したのかを考える殊勝さもない。そうして自己中心と無礼なふるまいによって得た財産を彼は文字通り浪費 (原語では「まき散らす」 の意)する。人の世には、こういったことはあふれかえっている。だがこんな自己中心的な歩みは長くは続かない。それを続ければ分断は不可避であり最後は誰にも相手にされなくなるのが関の山なのだ。
無関心
弟の行動の背後には何があったのだろう。彼は父を憎んで出奔したのか。本文中で弟が「お父さん」と 親しげに呼びかけているのを見ればそういうことでもないらしい。とはいえ弟が父を真実に愛していたとは到底言えない。それは彼が「何日もしないうちに… すべてのものをまとめて」旅立ったことからも明らかだ。ちなみに新共同訳は「全部を金に換えて」と意訳する。譲り受けた財産には現金以外のものもあったろう。 不動産、家畜、父の思い出がつまった工芸品もあったかもしれない。だがそうした父のセンチメントなど弟にはどうでもよかった。彼の関心はカネのみにある。そんな彼は悲しいまでに自己中心的な愛の犠牲者(M・ジャクソン)であり、親子の関係は決定的に壊れていた。自己中心と無関心はセットであり、それらは愛の反意語である。その果てに彼は報いを受ける。無関心と自己中心を貫いた男に待っていたのは「だれも彼に与えてはくれなかった」(16節)という無慈悲な現実であった。
功利的、打算的であること
何もかも失い、豚飼いに身をやつすまでになって、弟はようやく我に返る。彼の言葉には確かに悔い改めがある。はっきりと自分の罪を認めているのだから。しか し、謝罪の後に続く言葉はどうだろう。「雇い人の一人にしてください」という、一見殊勝なことばの背後には「食うためならどうでもいい。いっそ奴隷になっても生き延びようじゃないか」といった、ある種の取引が働いているようにも読める。真実な悔い改めの中にあっても、人はなお罪深いことが垣間見えるのだ。
神の愛
そんな真実な悔い改めの背後に取引の言葉をもって弟は帰路に就く。ひょっとしたら彼は父に受け入れてもらうため言うべき言葉を繰り返し練習したかもしれない。父は彼をどう迎えただろう。彼は息子を見つけるや駆け寄って口付けし、謝罪の言葉を口にする息子が「雇い人の一人に」という取引を持ち掛けるのを許さない。取引を仕掛けようとする息子をより強く抱きしめ、同時に父はしもべに命じて、家族を象徴する指輪や履物を持って来させるのだ。「もういいよ。お前は奴隷なんかじゃない。俺の息子だ。それで十分じゃないか」。自己中心で、人の心がわからず、悔い改めの最中においてさえなお功利的な男であっても、父にとって彼は息子以外の何者でもないのだ。人は悔い改めながらも罪を犯すが、神はその罪深い人間を罪あるままに抱きしめ、取引という奴隷への道を歩かないように子たる身分を回復させる。神の愛とはそういうものなのだ。
「反省が足りない」といって下げた頭をなお叩く世知辛い世の中に我々は生きているのだが、それはより激しい憎悪と分断を引き起こしてしまう。だから今罪あるままで父に受け入れられた神の愛をもう一度見上げたい。断罪を繰り返し「もっと悔い改めろ」と叫ぶのは奴隷使いであって父ではない。今神の愛に立ち戻ろう。我らの父はディール(取引)を超えた恵みのお方である。
放蕩を尽くした弟と対比して、父のもとで勤勉に働いていた兄に共感する人は多い。「孝行息子が放蕩息子をなじるのはもっともだ」。しかしその人は騙されている。彼は親孝行などでは決してない。父との関係は壊れているのだ。以下兄の正体を見極め、その罪が人間関係にどれほどの分断をもたらすのかを考えたい。
奴隷根性
弟の帰還、そして父が開いた祝宴に腹を立てた兄は、なだめにやって来た父親に怒りを爆発させる。「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」(29節)。「仕える」の名詞形は原語では「奴隷」である。「自分はこれだけ尽くしてきたのに、弟と比べてこの扱いは不公平だ」。この兄の怒りは、雇い人が持つ怒りである。確かに彼は父の戒めを破ることなく仕えてきた。しかしそれは心からの従順ではない。財産を受け継ぐのも、自分の労働力との交換だと考えているように見える。要は奴隷根性だ。だから父の不公平さが許せないのである。本当の親子ならそうはならないはずだ。だから兄の心には喜びがない。本来は親子でなければいけない関係がこの兄においては主人と奴隷のそれなのだ。屈従的で隷属的な思いは苦みに満ち、鬱積したどす黒い怒りを噴出させる。
断絶
29節をさらに見ると「私はお父さんにお仕えし」とあるが、原文には「お父さん」という言葉は無い。むしろ「あなたに仕え」である。いわゆる「あなた」呼ばわりを避けて、このように訳したのだろうが、長年隷属を強いられてきた鬱憤を露わにしているのだから、むしろ他人行儀な「あなた」を用いる方がイエスの意図に近づくと考えるべきだ。つまり彼は見た目こそ孝行息子であったが、親子の絆はとうの昔に切れていたというのが実のところなのだ。更に30節では自分の弟を「そんな息子」と言い放ち、「弟」とも呼ばない。父とも弟とも断絶し、暗がりの中で兄の心はますます冷めていくのだ。
頑なさ
そんな兄息子のところに父がやってくる。わざわざ宴会を中座してまでだ。そうして彼は兄を「いろいろなだめてみた」(28節 新改訳第3版)。「一緒に祝って欲しい。家族じゃないか」というのが父の本心だろう。それは「子よ」(31節)と呼びかけていることからもわかる。奴隷根性の果てにすべてから断絶していた兄であったが、父にとっては、兄も弟も同じ自分の息子であり、家族愛のきずなで結ばれた存在だった。しかし、言葉と態度によって断絶を宣言した兄の心は変わらない。むしろ父が真実な言葉を語るたびに彼の心はねじくれ、意固地になっていった。この話は暗がりで終わる。扉一枚開ければ祝宴の喜びが待っているのに、最後まで頑なに中に入ろうとしない兄。自己中心もそうだが頑なさもまた恐ろしい罪である。
失われた息子たち
このように見てくると「弟は放蕩息子、兄は孝行息子」という定式は成立し得ないことが明白である。喜びの祝宴を体験していない時点で兄は失われた状態にある。「放蕩息子」の名で有名なこの譬えは、むしろ「失われた息子たちの譬え」と改名すべきではないかとさえ思えてくる。そしてこの話を聞いていたのは、イエスと食事を共にし喜び合っている取税人たちと、それを遠めに見てつぶやいている律法学者たちである。その光景はこの譬えと見事にシンクロしている。
失われたものが見出されることの喜びは、羊や銀貨の譬えで先取りされている。一見孝行息子に見える兄も放蕩息子の弟も等しく悔い改める必要がある。そして悔い改めるところには真の喜びがある。そうした悔い改めは人生の中で一度きりということはない。人はルターが言う通り、その全生涯を悔い改めとするべきなのだ。残念ながらこの当たり前で、言い尽くされたことがわからなくなることがままある。奉仕の生活の中で奴隷化が進行するのだ。孝行息子の仮面をかぶった卑しい奴隷である兄息子がなすべきことはただ一つ。弟と同様、我に返り、魂の向きを変え、祝宴の扉を開けること。奉仕と教会生活の中で鬱積した不満と不公平感にさいなまれている人がもしいるなら、父のなだめの声と、「子よ」という呼びかけに素直に答え、祝宴の扉に手をかけてほしい。扉一枚先には天国があるのだから。
4.待つ愛、耐える愛、包む愛—分断を乗り越える父の神の愛—
2018年08月05日号 07面
このたとえ話には腑に落ちない思いを持つ人が少なくない。父は、弟の「放蕩」息子に対しては優しいが兄の「孝行」息子に対しては冷たい、偏愛ではないか、というのだ。しかし実は表現は異なるが、同じ性質の愛が2人ともに向けられている。父の愛は公平であり、分断した両者の関係をその愛の力で一つにしようとしている。以下、神の愛の特質について考えたい。
待つ愛
父の愛は「待つ」愛である。それも積極的に。弟息子を待ち続け、その人影を遠くに見つけるや、駆け出す。スティングのEnglishman in New Yorkではないが古代中東の成人は軽々には走らない。着物は長服だ。走るとなれば裾をからげねばならない。毛脛(けずね)は丸見え、恥も外聞もない。だが彼は走る。待ち続けたことが現実となったのだから。
この「待ち」は兄に対しても同様だ。意固地になって祝宴に加わろうとしない兄息子のもとに父は赴く。いろいろなだめてみても、その口から出るのはとげとげしい言葉ばかり。だが父は諦めず、ひたすら暗がりで息子のことばを聴く。この待ち続ける姿勢こそが分断した人間関係の再構築への道筋である。
耐える愛
「生きているうちに遺産をよこせ」といった弟の行為は「非礼」である。「愛は非礼を行はず」(Ⅰコリント13・5、文語訳)」を援用すれば弟は父を愛していないことになる。だが父は敢えてその要求を呑(の)む。おそらく父は後の展開を予想できていただろう。だが非礼に非礼を重ねたり、正論で立ち向かったりせずに耐え忍んだ。
この忍耐深さは兄に対しても遺憾なく発揮される。弟の帰還と父の対応が許せず、扉の外でひねくれている兄息子の口から出る悪口雑言に父はじっと耳を傾ける。こうした「口」撃は人間の心を削る。第一父はこの宴席の主催者だ。宴を中座し続けるにも限度があろう。だが父は「勝手にしやがれ」と吐き捨てて扉を閉めたりはしない。どこまでも忍耐深いのだ。
包む愛
父は弟息子を抱きしめた。「雇い人の一人に」という言葉を強い抱擁によって封じ、子であることを示す晴れ着と指輪と靴を与えた。父にとっては最初から、またどこまでも、彼は「子」である。子となる条件はない。父の愛の抱擁を受けた瞬間、分断は解消され、彼らは親子に戻った。
では兄に対してはどうか。確かに抱擁したという記述はない。しかし、自分の父を「あなた」(原文)と呼び、弟を「そんな息子」呼ばわりして突き放す兄に、父はやさしく、思い出させるように「子よ」と呼びかける。回復を目指しているのだ。もし兄が悔い改め、祝宴の扉をあけようとしたなら、父は兄の肩をそっと抱いたのではないか。畢竟(ひっきょう)父は兄を取り戻したいのであって断罪したいわけではないのだ。
この譬え話は罪人とともに語るイエスを論難するパリサイ人たちに向かって語られたものである。そう考えてもイエスの意図が断罪にないことは明白である。イエスは父の最後のセリフ、「喜び合うのは当然じゃないか」をもってパリサイ人たちを招いているのではないか。このイエスの招きを私たちはどこかに置き忘れてはいないだろうか。なるほど招かれたある者たちが救われ、成長するのは良いことだ。だが気付けばかつての自分を忘れ、新しく招かれたとっ散らかっている人々を指差し、粗探しをし、果ては「一見さんお断り」的になっているとすれば、父の神の愛に生きる共同体とは言えない。
神は愛だ。兄も弟もあなたも私も彼も彼女も皆、愛されている。十字架によってこれ以上なく表された神の愛を伝え、神の愛に生きるなら、必ず分断を超える何かが起こる。愛の奇跡だ。キリストを語るだけではダメ。生きなければ。なぜか。イエスは罪びとと食事をし、そこで語ったお方だからだ。もう一度言う。イエスがその苦しみと死、そしてよみがえりによって現わした神の愛こそ世界のすべての分断を解消する答えである。父の愛を存分に体験し、その愛をこの分断した世界に満たそう。わたしたちの使命はそこにある。(終)