11月11日号紙面:「心の内面」への介入に警戒 「道徳」の教科化 日基教団で共催講演会
「特別の教科道徳」が、今年度4月から全国の小学校で始まり、道徳は評価をともなう正式な教科となった。来年4月からは中学校でも開始される。2015年の文部科学省による指導要領改訂以降、キリスト教界もこの問題に注意をはらい、独自の副読本を作成するなどの動きが見られる。10月30日には、日本基督教団神奈川教区の婦人委員会・性差別問題特別委員会共催による講演会「道徳の教科化を問うー教会教育のあゆみの検証と共にー」が、横浜市内の紅葉坂教会を会場に行われた。【髙橋昌彦】
第1部の礼拝に引き続き第2部の講演では、日本キリスト教協議会(NCC)教育部総主事の比企敦子氏が、小中学校で使われる道徳の検定教科書の内容や問題点を指摘し、明治以降の道徳教育の変遷、教会教育のたどった歴史を検証した。
比企氏はまず、「特別の教科道徳」の問題点を7つ挙げる。①礼儀、愛国心など、文科省が決めた22の徳目重視、②明るく、努力するなど「良い子」観を提示、③「個」の抑制、社会への奉仕を推奨、④「理想の家族像」の提示、⑤崇高なものとの関わりを観念的に提示、⑥偉人伝が多く、「国語」の読み物と類似、⑦自己評価をさせる。
ここから見られるのは、心の内面への介入、人権意識、ジェンダーへの視点や社会問題への批判的視点の欠如、「道徳の正解」の強要、であるとし「国家が生徒たちの心の中に入ってきて、その心を管理して一定の方向に誘導しようとしている。道徳は学問ではなく正解はないはずなのに、それを評価の伴う教科として『正解』を示すなら、子どもたちは、教師や親が求める答えを先取りしてしまう」と、その問題点を指摘する。「いつも前向きに明るく元気に生きる」生徒像や、3世代同居の家庭ばかりが登場する。ひとり親家庭、在日外国人の家庭は出てこない。「道徳には正解はない」と言った場合の保護者からのクレームにも懸念する。
現在検定教科書は、小中学校9学年合わせて80冊近く出版されているが、教材として問題のあるものと評価できるものとがあると言う。有名なスポーツ選手の文章を紹介して国旗・国家への忠誠を促すものや、歴史認識を疑うものもある。つるを伸ばして車道まではみ出せてしまった結果、車につぶされてしまうかぼちゃを擬人化して「わがまま」を戒めるものがある一方、豚の解体の話から、命を「いただいて生きる」という事を考えさせるもの、性的少数者を扱ったものもある。文学作品として国語の教科書で扱われた方が相応しいものも多く、道徳という教科に持ち込む必然性がない。「いずれにしても、その教材が授業の中でどのように扱われるか、教師の視点や力量に影響されること自体に問題がある」
戦後の道徳教育は、1958年に「道徳の時間」が置かれたことに始まるが、その前身は明治に始まる「教育勅語」と「修身」である。1899年には学校における宗教教育が禁止され、キリスト教学校の中には閉校に追い込まれたところもあった。横浜のフェリス和英女学校も、女学校から各種学校扱いに追い込まれたが、後の英語専攻科と聖書科を置いて、師範学校並の教育により優秀な人材を輩出した。戦後1948年には衆参両院で「教育勅語」の失効決議がなされたが、2006年には教育基本法が改「正」され「国を愛する心」が明記された。1999年に「国旗・国歌」法制化の際に、国会の大臣答弁でも強制はしないとの記録があるにもかかわらず現在は強制され、公立学校のキリスト者の教師たちは免職の危険に脅かされている。一連の教育改革や道徳の教科化の背後には、「美しい日本をとりもどす」とする歴史修正主義に立つ保守・右翼系「日本会議」が控えている。
明治期からの教会教育の歩みに関しては、昨年開設されたNCC教育部の「平和教育資料センター」の資料を提示しながら、次の点に注意を促した。▽1912年の「第6回日曜学校生徒大会」(日比谷野外音楽堂)開催後、二重橋前で君が代斉唱万歳三唱、▽20年に東京で開催された「第8回世界日曜学校大会」に政財界宮内省が後援、「御下賜金」5万円(現在の貨幣価値で7千500万円以上)、▽28年昭和天皇即位に際し、日本日曜学校協会(NSSA)が純銀製の「キリストと日本の子供」像を献上、▽37年NSSAが日中戦争遂行支持を表明、▽41年に日本基督教団が成立して以降、キリスト教界から9機の戦闘機が奉納された。他にも、日曜学校の礼拝カリキュラムで、皇室を基とする「愛国の精神」が称揚され、「キリストは世界共栄圏建設のために働かれた」と教えたこと、「戦捷(せんしょう)建国記念 母の運動」など、軍国少年少女を育てるために「母」が利用されたことを指摘した。
最後に比企氏は「私たちは教会教育の歩みとして負の歴史から学びたい。日本基督教団成立以前から、キリスト教会全体が国家の大きな流れと一体化したこと、それも強いられてというより喜んで協力していった姿を見るときに、現在のキリスト者一人ひとり、すべての教会がこの問題を受け止めなければならないと思う。私たちがめざしたい教育は、様々な意味でのマイノリティへの視点、ありのままの自分とその弱さの自覚と受容、多様性を豊かさとしてとらえ、一人ひとりを尊重すること。また、すべての人間がもつ差別意識と偏見への気づきが大切ではないか。教会のなかにある家族主義、異性愛主義が他者を排除してはいないか、自らに問いかけたい。道徳という『あるべき論』に縛られることなく、生きにくく、死を選びやすい状況にあっても、あるいはまた、国家によっていのちが軽んじられたり、捧げさせられたりしないためにも、いのちを選ぶ教育をめざしたい」と結んだ。