二つの新しい聖書の翻訳者ら同じ壇上で “ピスティス”をどう釈義? 説教塾公開講演会「説教と聖書翻訳」

説教塾公開講演会「説教と聖書翻訳」(同主催)が、6月17日、東京の単立・キリスト品川教会を会場に行われた。一昨年、昨年と、相次いで刊行された『聖書 新改訳2017』(2017)、『聖書 聖書協会共同訳』(協会共同訳)、二つの新しい日本語訳聖書の翻訳者が、同じ壇上でそれぞれの翻訳について語った。【髙橋昌彦】

最初に2017の翻訳で新約主任を務めた内田和彦氏(JECA・前橋キリスト教会牧師)と、協会共同訳の翻訳者兼編集委員を務めた住谷眞氏(日キ教会・茅ヶ崎東教会牧師)が講演。それぞれ『新改訳聖書』、『新共同訳聖書』等からいかに新しい翻訳に変わったか、変えなかったかを、聖書の箇所を具体的に挙げながら語った。中でも両氏が共通して取り上げた箇所は、宗教改革以来の「信仰義認」の解釈に関わるとして注目されるローマ書3章22節の「ピスティス イエスー クリストゥー」。
2017は「イエス・キリストを信じることによって、(信じるすべての人に与えられる神の義です。)」と従来の訳を取り、協会共同訳は「(神の義は、)イエス・キリストの真実によって、(信じる者すべてに現されたのです。)」と、近年のパウロ神学の新しい知見を取り入れて訳す。そしてそれぞれ欄外に別訳として「イエス・キリストの真実によって」(2017)、「イエス・キリストへの信仰」(協会共同訳)を注記している。


内田氏は2017が従来の訳に留まった理由として、「この文脈に義認の土台としてキリストの従順を示唆するものがない」「パウロが用いる“ピスティス”のほとんどは“信仰”」「ローマ3章21節〜4章25節を通じて“ピスティス”は義認の方法であり、人が神に対して抱く信仰の意味」「義認の土台にキリストの従順があると語る5章18、19節で“ピスティス”が使われていない」の4点を挙げた。
住谷氏は「近年の新約学では、パウロ神学における神の義の生じる実在根拠として解される『の』の属格を、主格的に取り『イエス・キリストが貫いた真実』と理解することが通説となってきた」が、この理解はローマ3章22節に「『信じる者』にこの義が及ぶとあるので、『信仰義認』が否定されるわけではない」とした。さらにこの理解に立って1章17節前半を「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」と訳したことについて、「前者は『神の義』の存在根拠としてのイエスの真実、後者はそれにより実現する『神の義』の受容機関としての人間の信仰となり、神学的垂直的な啓示経路となる」と語った。

両氏の講演を受けて、郷家一二三氏(ホーリネス・坂戸キリスト教会牧師)、高橋和人氏(日基教団・田園調布教会牧師)が応答。郷家氏は「内田氏からは、ローマ3章22節に関し、その言葉の後景として〝イエス・キリストの真実〟、前景として〝イエス・キリストを信じる信仰〟という、一つのイメージが示された。そこを踏まえて説教するなら、〝自分が信じる〟という実存的な理解に傾きやすい私たちの信仰に対して、聖書と宗教改革者たちの信仰理解に立った視点が得られると、目が開かれた。この箇所をどう理解するかはさらに対話を重ねてほしい。二つの日本語訳聖書が与えられ、改めて聖書の世界は豊かだと思う。両方ともに教会で用いられるべき。単に以前の訳との違いに目をとめるのでなく、新しい聖書を通読することが教会に与えられた使命だ」。
高橋氏は「ローマ3章22節の住谷の説明には納得したが、教会で扱うには説明が必要だろう。1章17節の訳し分けを見ても、聖書翻訳は説教に近い作業だと思う。聖書は説教を求め説教は正しい釈義を求めている。そこに聖書の聖典としての権威が現れる。礼拝で用いられることを目的とした協会共同訳は、聖書が文化人の教養書ではなく、あくまでも教会のものだということをはっきりさせてくれた」と語った。
さらに4氏によるパネルディスカッションでの発言要旨。
住谷「聖書の言葉がそのまま説教題となるような翻訳を心がけた。今回の翻訳には、自分が研究してきたすべてを投入した。集まった新約学者の面々を見ても、次の30年40年後にこれだけのメンバーがそろうかどうか、危うい。そのことを考えても、二つの聖書が同じ時に出たのは大きなこと」
内田「耳で聞いて誤解されることがないような訳出が、一つのポイント。今現在だけでなく、20年後の読者にも分かるような訳文を生み出すべきと考えた。さらに次の聖書翻訳を考え、聖書翻訳研究会を立ち上げ、年に2回研究会を開いている。今年の暮れには第一号の聖書翻訳に関する論集を出したいと思っている」
郷家「協会共同訳がガラテヤ2章20節で『神の子の真実による』と訳したことは、ホーリネスの信仰にとって衝撃的で、心を捕らえられた。内田氏が言うように、信仰も啓示として上から与えられるものだろう」
高橋「ピスティスの解釈では、聖書解釈に組織神学的な光を当てていると感じた。それは説教の課題でもあり、説教への導きを与えられた。今回の新しい翻訳聖書を見て、共同訳と新改訳がずいぶん近くなったという印象を持った。両者が協力して作業できる方向に向かうなら、うれしい」