パラグアイ ピラポ自由メソジスト教会が献堂式 日本人移住地に新会堂建つ 無牧で建物もなく信徒漸減 だが信仰の火を守り続けた

南米の内陸国パラグアイの南部にある日本人移住地ピラポで、ピラポ自由メソジスト教会の献堂式が6月23日に行われた。日本基督教団派遣宣教師の江原有輝子氏のレポートを紹介する。

パラグアイへの最初の日本人移住は戦前の1936年に遡り、すでに80年以上の歴史があります。ここピラポへは戦後の1960年に入植が開始されましたが、その1年後には日本人への伝道が開始されました。ピラポではその61年に酒井兄姉宅で家庭礼拝が始まり、翌年には酒井夫妻が中央地区に教会を建てました。
数年間は宣教師が常駐し、その後は隣町の教会の日本人牧師が26年間、月に一度礼拝説教をしました。1980年代の半ばからは様々な教派の牧師が来ては数年間巡回することが続きました。15年ほど前に、中央地区を離れて、「23㎞地区」の旧寄宿舎の建物を借りて礼拝をしなければならなくなりました。牧師もおらず建物もなく、信徒は次第に減っていきましたが、残された人々は信仰の火を必死に守り続けました。巡回牧師が来ない週は、説教テープを聞いて礼拝を守りました。何度も何度も聞いたので、テープはすっかり擦り切れてしまいました。ひたすら心を一つにして教会に集まって礼拝し、祈ったのです。
このころ、沖縄の中学校教師だった知花スガ子氏は、「パラグアイに行きなさい」と言う神様の声を聞き、献身して東京神学大学に入学しました。神様からの召しはあったものの、卒業時になってもパラグアイの教会について何の具体的な情報も得られなかったため、募集広告を見て隣国ボリビアの沖縄移住地の教会に赴任しました。しかし、神様が示されたのはパラグアイです。ボリビアでの任期終了後、自身でパラグアイの首都アスンシオンに赴き、しばらく滞在しながら日本人移住地の情報収集をし、現地を訪問しました。その中で導かれたのが、40年にわたりほとんど無牧の状態であったピラポの教会でした。
知花牧師は2015年から日本基督教団の派遣宣教師としてこの教会に赴任し、4年の間に中央地区に土地を取得し、新しい教会を建てました。ピラポ教会の通常の礼拝出席者は5人で、そのうち3人は高齢者です。その教会が土地と建物に多額の資金をかけることを不安視する声もありましたが、教会バザーや建築献金及び日本の教会やグループからの援助によって建築資金は全額準備できたということです。
知花牧師は今年1月に帰国し、後任の江原が5月に着任して献堂式を執り行いました。実働3人の極小教会が招待状を配り、各移住地のキリスト者に連絡し、会堂の家具の搬入、愛餐会の手配、牧師館宿泊者のための寝具の準備、礼拝堂の清掃までこなしました。すべての準備は整えたはずでしたが、それでも心配のあまり夜中に起き上がることもありました。
献堂式当日は、美しい晴天で、風もなく、6月はパラグアイでは冬ですが、暑いほどでした。首都アスンシオン、第二の都市エンカルナシオンや、イグアス、ラパスなどの日本人移住地、ピラポ教会の信徒の他に近所の方も招き、ブラジルのサンパウロの日本人牧師一人を含む計35人が出席し、共に礼拝を守りました。国内には6か所の日本人移住地がありますが、ピラポ以外の移住地に日本人教会はなく、礼拝中に涙を流す出席者もいました。他の多くの移住地では、礼拝に行きたいと思いながら機会が無い、というのが現状のようです。ここピラポでは、毎週日本語礼拝を守り、第一週には聖餐式を行うことを告げて、礼拝出席を促しました。
愛餐会ではパラグアイの定番料理である焼肉「アサード」と日本料理の盛り合わせを食べながら、和やかな喜びの時を過ごしました。
献堂式を機に、地域や各移住地の人々を招き、伝道に力を尽くして、福音を伝え続けていきたいと願っています。
▽献堂にあたり、日本基督教団牧師知花スガ子氏から本紙に寄せられたコメント。
「献堂おめでとうございます。ピラポ教会の方々との出会い、会堂建設という主の御業に参与させていただいた恵みを心より感謝いたします。新しい会堂は、神が生きて働いておられる事の証です。私はこの度の会堂建設を通して、全てのことは神様のご計画であり、神様のご支配の中にあることを痛感致しました。ピラポ教会がこの地において地の塩、世の光として人々の救いのために立ち続けることを心より願い求めます」
【宛先、名称、所在地】Pastora Yukiko Ehara
Iglesia Methodista Libre Pirapó Nikkei
Av. Japón y Ecuador, Centro, Pirapó, Itapua, Paraguay