安心して認知症になれる社会に 社会福祉法人呉ハレルヤ会理事長 呉ベタニアホーム統括施設長 里村佳子さん(下)

 真理は近くにあった

広島県呉市出身。教会が家の近くにあり、「4歳頃から、友だちと一緒に日曜学校に通っていました」。「両親はクリスチャンではないですが、クリスマスの時には生誕劇を見に来たりしました。小学校6年生の頃まで通っていました。でも、中学生になってから離れてしまったのです」
高校生の頃、神様はおられるのか、生きる意味はあるのだろうかと悩んだ。進学校で勉強についていけず、皆が勉強している中、いろんな本を読んでいた。高校2年の時は、唯物論の本も読み、「神様がいると思っていたけれど、いないんだ。死ねば無なんだ。今見えていることがすべてなんだ」と結論づけた。
29歳の時、エホバの証人の人と勉強をしていた友人が、里村さんに「今のキリスト教は悪魔の組織だ」と言ってきた。里村さんは、「牧師先生もいい人だったし、悪魔の組織は言い過ぎではないか」と反論。「昔、私が行っていた教会に行ってみよう」と友人を誘った。
教会に行くと、昔お世話になった伊藤正泰牧師(故人)が迎えてくれた。伊藤牧師は「聖書の勉強をしてみませんか」と提案。友人と一緒に聖書の学びを始めた。学びを始めてから、「真理はこんなに近くにあったのだ」と里村さんは気づいた。「私がバカだった。ここにあったのに…。そう思った途端、開いていた穴が埋まったのです」。人生をやり直そうと思い、30歳の時に受洗。「そこから私の人生は180度変わった。死んでいた者が生かされたのです」と語った。
福祉介護に携わるようになったのは、42歳の時から。1997年のある日、社会福祉法人呉ハレルヤ会の初代理事長だった小宮山林也牧師から、一本の電話があった。それは「社会福祉法人は認可されたが、新しく作る施設で働く人がいないので手伝ってほしい」という内容だった。里村さんは当時、簿記とビジネスマナーの講師をしていたが、「敬愛する牧師の頼みであるならばと、何も知らない福祉の世界に飛び込みました」。

福祉介護の世界へ

ハレルヤ会は、呉市および近郊のプロテスタントの教会が協力し、高齢者のためにキリストの愛で仕えたいというミッションを持って設立された。98年にはケアハウスとデイサービスを開設。里村さんは、相談員として利用者のケアや事務全般を担当することになった。「ケアハウスが自立度の高い60歳以上の人が対象の施設であったことは、介護の知識や経験のない私にとっては幸いでした。施設は呉市の中心にあり、アクセスもいいので、ケアハウスは開設と同時に満室になりました。とは言え、何もかも初めてで、すべてが暗中模索。経験のなさを知識で埋めようと、研修や講演会、施設見学などあらゆるところに出かけて研さんを積みました」
01年には呉市の委託事業である在宅介護センターを、ケアマネージャーの資格を取った04年には、居宅介護支援事業所を開設。事業は軌道に乗ったかに見えた。
里村さんは、少し仕事を離れ、これからの自分について考えてみたいと思うようになり、苦手な経営について学んでみようと、1年でMBA(経営学修士)が取得できる法政大学大学院の試験を受け、合格。05年4月から東京で学生生活をするための準備を進めていた。
ところが、施設では離職者が続出。佐藤孝義理事長から「施設長の辞表を受理したので、施設長に就任してほしい」との要請があった。返事に窮していると、佐藤理事長は「大学院に進学しなさい。これからの福祉には必ず経営の知識が必要になってくるから」と、里村さんの背中を押した。
こうして、ケアハウス施設長と大学院生を両立させるための生活が始まった。水曜日から金曜日の午前まで東京にいて、金曜日の夕方から週明けの火曜日まで施設長として働く日々。新幹線の往復の車中が唯一の休息場であり、大学院の課題作成の時間だった。教授陣や学友、理事長やスタッフの支えで何とか1年で大学院を卒業した。
ホッとしたのも束の間、呉市が介護施設を公募した。要介護になっても安心して暮らせる施設をつくりたいと願っていた里村さんたちは、小規模多機能型居宅介護とグループホームの公募に応募。「事業計画書作成に、私が大学院で学んだ知識が役立ちました」。結果、両方とも1位指名を受け、新施設が07年に開設した。
だが、入札前夜に階段のいちばん上から落下し、大けがを負った。この時の経験を通して、「介護される人の気持ちをより身近に想像できるようになった」と言う。
「この20年間、多くの認知症の人と接し、人生を学んだ」と里村さん。「そう遠くない日に、安心して認知症になれる社会が来ることを信じて、前進していきます」と抱負を語った。【中田 朗】