長野・中信地区で宣教はどう進んでいったか? 両親のバトン受けチーム宣教へ 地方伝道シンポでジョナサン・ジャンカー氏講演

北関東神学研修センター(山口勝政代表、茨城県石岡市)主催の第20回シンポジウム「地方伝道を考える─自立と連帯─」が8月20、21日、「松本平の宣教と中信地区宣教協力会」をテーマに長野県安曇野市穂高柏原のあずみ野ファミリーチャペルで開催。長野県の中信地区で宣教する牧師、宣教師、信徒ら20人余りが参加し、中信地区でどのように宣教が進み、また宣教協力がなされているのか、講演とパネルディスカッションが行われた。

全体講演ではTEAM宣教師のジョナサン・ジャンカー氏が、47年間にわたり中信地区で宣教をしてきた両親のカルヴィン&パトリシア・ジャンカー夫妻について、またその活動について語った。
ジャンカー夫妻は19
54年、アメリカの教会から派遣され、47年間日本で宣教活動を行う中で、松本、安曇野、大町で6つの教会を開拓。教会開拓だけにとどまらず、英会話、少年院や松本少年刑務所の訪問、教育関係の働きやキリスト教書店「松本豊かな命聖書書店」を始めるなど、多方面で活躍。2001年に働きを終え、アメリカに帰国した。
「松本は宣教師の墓場と言われた場所。5、6人の宣教師が来ては次から次へと去って行った。その後、私の両親が松本に来た」。最初にジョナサン氏はこう語る。
「父は少年兵としてフィリピンのサマール島にいた時、日本人がフィリピン人に対してどんなに残虐なことをしていたかを知った。父は日本人が大嫌いになった。その後、ボブ・ジョーンズ大学に入学。宣教師のための祈り会に毎朝参加したが、日本の牧師と宣教師のカードを受け取った時は、憎しみで祈れなかったという。そんな時、神様がそっと『ヨハネの福音書3章16節を読んでみなさい』と言われ、読んでみた。そこには、『ひとり子をお与えになったほどに世を愛された』と書いてある。『天の父は世界を愛し、日本も愛しているが、自分は日本を憎んでいる』と悟った父は砕かれ、罪人の祈りをし、日本宣教師になった」
「母は宣教師の訓練会で父と出会い婚約。1954年、2人は軽井沢で結婚式を挙げた。母はとても優秀な人で、『彼女ほど日本語ができる外国人はいない』と言われるほどで、信州大学などいろいろなところで通訳する人だった。父は語学には苦労したが、来日数か月語には日本語でメッセージをしていたと聞いている」
57年に松本へ。古い建物を借りて集会をし、天幕伝道、子ども集会、木崎湖でのバイブルキャンプ、豊科赤十字病院での伝道、松本城周辺でのトラクト配布など何でもやったという。「父は本当に熱心だった。最初の1年目で20人が洗礼を受けた。父は少年院での働きが評価され、法務省から勲章をいただいた。地元ラジオにも出演。オートバイ好きで、大町には何回も伝道に行った」
「母は子どもの働きに熱心で、300人の子どもや親に英語を教えていた。また長野だけでなく全国で2千回以上講演。イエス様の話だけでなく、子育てなどの講演でも必ず聖書の言葉を前に置いて話した。母の中心的な聖句は『主よ あなたはみことばのとおりに あなたのしもべに良くしてくださいました。良い判断と知識を私に教えてください』(詩篇119・65、66)だった」
63年、豊かな命聖書書店が豊科でスタート。ここを拠点に教会が始まり、やがてあずみ野ファミリーチャペルへとつながっていった。また、「神様が働いてくださって、父と母の働きを通して同盟基督・松本中央教会、JECA・松本聖書福音教会、JECA・豊かな命キリスト教会が誕生した。大町ではすでに始まっていた開拓伝道に父が関わった。父は屋根から落ちて大けがをしたが奇跡的に癒やされたということもあった」
ジョナサン氏は87年按手を受け、安曇野へ。「いちばんなりたくなかったのが宣教師だった。だが使徒の働き2章37〜47節を通して「『これが私の願っている教会だ。あなたはこの働きに加わらないか』と語りかけてくださった。使徒時代の教会は熱心で、人々に好意をもたれ、救われる人々も毎日加えられた。神様は私に日本の教会、海外の教会の助けを得て、新しい教会を生み出していくビジョンを与えてくれた」
「田舎の教会は都会の教会に比べて大変だと言われる。でも聖書の神は、都会でも田舎でも、アメリカでも日本でも同じ。だから神様を信頼します」とジョナサン氏。エペソ人への手紙4章11節を挙げ、「チームで一緒に教会を建てあげる」ことの重要性を説いた。「一人でやっている時は疲れた。チームでやりたいと言ったが、田舎では無理だと言われた。でも聖書では複数でやりなさいと書いてある。本当に祈った。燃え尽きそうになった時に、神様は同労者を与えてくださった。今、日本人と外国人が一緒に宣教することの大切さを実感している」と語った。(次号に続く)(5面に関連記事)【中田 朗】