月間「いのちのことば」、「福音ジャーナル」を経て1967年5月1日号からスタートした「クリスチャン新聞」は今年で52年が経ち、通巻も2,500号を数えた。その間、2度の改元と20世紀から21世紀という時代の節目を体験した。新聞はその時代を映し出す媒体だという。その時代の変わり目に、日本のキリスト教界ではどんなことが起こったのか、またクリスチャン新聞はその時に何を報道してきたのか、その前後の新聞記事から当時を振り返る。

昭和から平成 〝自粛ムード〟の中で変わらない主の〝時〟 「皇太子への手紙」は果たして届いたのか

昭和天皇が1989年1月7日に逝去した直後のクリスチャン新聞1月22日号(通巻第1087号)の1面では「教界ドキュメント 『昭和』が終わったとき」「各地で緊急集会」「教会の応答、聖書に聴く」などの見出しが躍る。
記事では「昭和天皇逝去の七日、かねて懸念されていた皇位継承儀式『剣璽等承継の儀』がキリスト教界などから出されていた強い要望を無視する形で『国事行為』として行われた。続く『朝見の儀』も国事行為化、二月二十四日に予定されている『大喪の礼』も国事行為とされることが濃厚となった。こうした中で、七日から八日にかけて、教界関係者ら各地で緊急集会を開き、各教団・教派、JEA(日本福音同盟)、NCC(日本キリスト教協議会)などから一斉に声明・要望書・通達などが出された。一方、天皇逝去の日の翌日となった八日の日曜日、各教会では主日礼拝が守られ、変わらない主の〝時〟が刻まれた」と報じている。
また、「天皇制賛美に抗議集会 東京」の見出しで、「七日夜、天皇制反対を表明するキリスト者や労働者、学生などの団体が集まり、『天皇制の賛美に抗議の声を─共同声明運動緊急集会』(主催団体=共同声明運動実行委員会)を、西早稲田の早稲田奉仕園スコットホールを会場に開催した。(中略)当初の予想をはるかに上回る六百人が参加。百五十人収容の会場は全員を収容しきれず、屋外にまで人があふれた」と、昭和天皇逝去当日の動きを伝える。
さらに、「聖会〝自粛〟せず」の見出しで、天皇逝去の翌8日午後、埼玉県浦和市の浦和市民文化センターで、日本福音自由教会協議会主催による恒例の新年聖会が予定通り開かれ、「日本中が自粛ムードの中、会場には連合聖歌隊によるハレルヤコーラスも響いた」と、自粛ムードに抗う教会の様子も報じている。
2面では、各界のクリスチャンリーダーのコメントを紹介。政教分離の会事務局長の西川重則氏は「日本は、依然として偶像崇拝の国であり、『死者が生者を走らせる国』であり、古い力が根強く残っている」、皇室と交流のある滝元明氏(日本リバイバル・クルセード主幹)は「新天皇の救いのために祈る」、『ホーリネスバンドの軌跡』編著者の山崎鷲夫氏(東京聖書学院名誉教授)は「天皇制反対の論調に疑問」との見出しで、「日本の八〇%が天皇制を支持している現実の中、これに反対することは国民感情を逆なでして、キリスト教界にとってむしろ、マイナスだと思う」と述べている。
興味深いのは「『皇太子への手紙』は届いたか」という記事。1988年11月、プロテスタントの信徒・教職者ら有志は(当時の)皇太子明仁氏に対し、父・天皇に戦責謝罪を進言するよう勧めた「皇太子への手紙」を藤森宮内庁長官あてに送付した(88年11月27日号で既報)=写真左上=。 この手紙が明仁氏の手に渡ったのか否か。記事では「代表の渡辺信夫師らが十一月十八日『確かに届けて頂けたか』と宮内庁に問い合わせたところ、何の音沙汰もなく、今度は『十二月十四日ごろ確認のため訪問したいのだが』と打診すると、『取り込み中なので見合わせて頂けたら』の返事。そして、次のような回答があった。『手紙』は正規の手続きを踏んで藤森長官の手に渡り、皇太子担当の〝東宮侍従〟に口頭で伝えられた─。果たして皇太子明仁氏の耳には届いたのか。そこから先は菊のカーテンのかなたに覆われている…」と記している。
2月19日号では、「天皇代替わりの影響を緊急アンケート」の見出しで、天皇逝去翌日の主日礼拝および教会行事で、どんな影響があり、どんな対応がなされたか、全国千教会に緊急アンケートを実施し、アンケート結果を報じる。その中で、「天皇の死に関して礼拝で触れた」は、過半数に上ったという。