教会の基盤を確認することが「最大の武器」  寄稿・袴田康裕・神戸改革派神学校教授

 キリスト者として天皇制をとらえる視点として、以下の四つの命題をあげたいと思います。

 ①「聖書から見れば、天皇の本質は異教の大祭司である。決して、ウェストミンスター信仰告白第23章が言う『国家的為政者』ではない。キリスト者が天皇制を擁護する根拠を、聖書に見出すことはできない」

 これが最も基本的な認識です。異教の大祭司に依存した、あるいはそれとの共存を喜ぶようなキリスト教会になってはなりません。日本の教会の歴史は、明らかに天皇制との共存を喜んできた歴史です。しかしそれがいったい何を教会にもたらして来たのでしょうか。

 聖書は、イエス・キリストを教会の主と教えるだけでなく、王の王、主の主と教えています(マタイ28・18、エぺソ1・20〜21、コロサイ1・15〜17)。それゆえ、国家もイエス・キリストの権威の下にあります。そのイエス・キリストの下にある支配の中で、異教の大祭司が積極的役割を果たすことはあり得ません。私たちは、天皇制を擁護する根拠を聖書に見出すことはできません。

 ②「現在の日本の為政者は、天皇の権威の強化を目指している。これは事実上、国家主義の強化であり、間違いなく少数者の基本的人権の侵害に結びつくものである」

 天皇制を強化し、たとえば天皇への崇敬義務や、日の丸・君が代の尊重義務が、自民党改憲草案に記されています。これは、そうでない意見を持つ人たちを追い詰めることになります。そして恐ろしいのは、天皇の宗教である神道を、宗教ではなく習俗・文化として国民に強制する危険性があることです。学校では、日本の文化として神道的霊性が教えられ、また公務員は職務命令として神道行事への参加が強制される。天皇制の利用によって、政教分離が崩されていくのです。その意味で、今回の天皇の即位儀礼は極めて危険です。天皇制の強化は、間違いなく少数者の基本的人権の侵害に結びつきます。

 ③「キリスト者は『天皇を戴く日本』の国民である以上に、天に市民権を持つ者である。聖書は国家的ナショナリズムを是認しない」

 日本におけるナショナリズムの中心に天皇制があるのは、言うまでもありません。しかし、聖書は国家的ナショナリズムを是認しません。聖書の福音は、ある時代、ある国に限定的に適用されるものではなく、あらゆる時代のあらゆる国に適用される普遍的性質を持ちます。イエス・キリストの福音は、国の違い、民族の違いを乗り越えるものです。ですから基本的にナショナリズムと対決する要素を持ちます。特定の民族ナショナリズムと結びつくキリスト教がその正統性を失うのは、歴史の教える教訓です。

 ④「日本の教会は、かつて大きな過ちを犯した。その過去を教訓として、教会は『霊的自律、信仰上の独立、スピリチュアル・インデペンデンス』の意識を明確に持たなければならない」

 日本の教会が、とりわけ戦中に、国家の推し進める天皇教に屈服したことは紛れもない事実です。その原因の一つは、戦いの基準が不明確であったことです。教会が教会であるための基軸、それが「霊的自律、信仰上の独立」です。すなわち、イエス・キリストが教会に与えられた霊的権能を、決して国家権力に明け渡してはならないのです。ウェストミンスター信仰告白の表現で言えば「御言葉と礼典の務めや、天国の鍵の権能」(第23章3節)です。御言葉の教えすなわち説教、礼典の執行、教会の統治は、キリストを主として自律的に行わなければならないのであって、決して国家権力の介入を許してはならないのです。それを許せば、教会は教会でなくなります。

 教会の依(よ)って立つ基盤を、自覚的に確認していくことが大切です。結局それが、天皇制ナショナリズムに立ち向かう、最大の武器になるでしょう。政治の動きから目を離すことはできませんが、同時に、まっすぐに御言葉を語り、真の教会を建てることに邁進(まいしん)しなければなりません。