終末に生き、永遠に直面して TCU初代学長・丸山忠孝氏が来日講演 『十字架と桜』の「その後」を語る

 天皇代替わり、改元を迎えた日本。11月14、15日の大嘗祭をクライマックスに関連行事が国家規模で相次ぐ。「地上の時」とともに、「永遠の時」を生きるキリスト者は、この「節目」をどのように過ごすだろうか。今春『十字架と桜 キリスト教と日本の接点に生きる』(いのちのことば社)で「日本的なもの」に向き合ってきた丸山忠孝氏(東京基督教大学元学長)は、その思索をさらに進め、「時と永遠」について考えている。多様な思想家、神学者の論考を参考にして、日本の背後にあるものに目を向ける。【高橋良知

 「歴史」から「将来」への視点へ

 東京基督教大学が30周年を迎えるのを機に、丸山氏は来日し、10月30日には同大学で「時と永遠:キリスト者の終末的生き方の観点から」の題で記念講演、11月2日には同東京地区支援会主催集会で、「『十字架と桜』から『時と永遠』へ」の題で講演(会場は東京・千代田区の御茶の水キリストの教会)をした。

 30年前、まさに昭和から平成の代替わり時期に初代学長だったのが丸山氏だ。著書『十字架と桜』は、1995年のセミナーをもとにした「十字架と桜Ⅰ」を起点に、関連する1976〜2017年の論稿を集めたものだ。それぞれに著者自身が解説をし、最後に書き下ろしで「十字架と桜Ⅱ」の論稿を加えた。いわば「十字架と桜」の「その後」の論集だ。さらに11月の講演は、著者により、「その後」の「その後」が語られる機会となった。

「『十字架と桜』では歴史、過去を見てきた。しかしそれだけでは足りない。将来を見ていかなくてはいけないのではないか」と講演の動機を述べた。「先輩、同輩、後輩たちが召される現実の中、将来に向けてこれからのキリスト教会がどうあるべきかの糸口をつかみたいと思った」と話す。

 キリスト教と日本のコントラスト

 「十字架と桜Ⅰ」でテーマになったのは、日本的なものと、キリスト教のコントラストやジレンマだ。「欧米で歴史神学の訓練を受けた者として、神学校では、キリスト教を主体とした歴史を語ってきた。だが実際それが現場では役に立たないのではないかと悩んだ」と言う。「神学校を卒業し、派遣された先生たちが直面するのは、日本が主体で、キリスト教が客体となる世界だ。日本の先行研究を見ると、圧倒的に日本が主体となり、キリスト教が客体となるものが多かったのです」

 しかし、最終的に行き着いた考えは、「日本で小さな存在でしかないキリスト教は、むしろキリスト教を主体とした視点をもっと強く押し出さなくてはならないのではないか。日本におけるキリスト教の『受容』という視点ではなく、日本への『派遣』という視点」だった。

 キリスト教と日本の対比のシンボルが十字架と桜だ。そこにはまず「歴史」と「伝統」のコントラストがある。「天地創造から終末までの神の救済の働きがある『歴史』。繰り返されることがない一回限りの歴史の中で一つ一つの出来事に意味がある。それに対して、散ってはまた咲くを繰り返す桜は『伝統』。そのような循環的な史観が『伝統』だ。自然のなりゆきに任せる生き方があり、その中で生きる個人の意味は希薄、あいまいになる」と話した。

 また「論理」と「感性」の対比では、戦時中、憲法学者の美濃部達吉が「天皇機関説」を論じた著作が発禁になるなど「天皇制を論理的に突き詰めると罰せされた」例を挙げた。戦後についても、憲法学者の戒能道孝氏が「天皇制に感情の壁がある」という指摘を紹介した。

 対比と歴史・自己認識

 「十字架と桜Ⅱ」では、これらの対比の根底にあるものを探るため、近代日本を考察した。「明治150年でその中間は敗戦。戦前と戦後で何が連続し、何が非連続か。日本は、天皇制国家体制から民主制国家体制に変わったというが、根底にあるものは変わっていないのではないか」と述べた。

 これに対する取り組みとして、二つの方法を紹介した。一つ目は「十字架と桜Ⅰ」で考察したコントラストを再び考えること。その中で根本的な相違を超越神の有無、価値観、宗教人口の観点で語った。

 二つ目の方法は、キリスト者の歴史認識と自己認識だ。政治学者の丸山眞男が、日本には永遠という独立概念がなく現在中心主義であるという指摘をしたことを紹介。

 歴史を動かすものとして、丸山眞男や評論家の加藤周一が問題にした、外来のものを「日本化」する日本の傾向について触れ、「これは日本のキリスト教にあてはまるとどうか」と問うた。

 将来と永遠の確実性

 続いて「時と永遠」講演を解説。ドイツの聖書学者オスカー・クルマンの「キリストと時(1946年)、宗教哲学者波多野精一「時と永遠」(1943年)を中心に論が展開された。

 クルマンの研究について、「聖書のヘブライズムの歴史観は、ヘレニズムの歴史観と違うものであるが、長らくヘレニズム優勢で理解されてきたのではないかという問題意識」を指摘。「聖書の『時』は、神の働きの場。神の国、キリストの支配は、『すでに』始まっているものの、終末において完全に実現する希望を示した。それに対してヘレニズムは、現生の時を悪とみなす。肉体的な死によって解放される。このときの『永遠』は無時間。円環的な時間であり、仏教、神道に通じます」

 波多野の哲学の特徴は「哲学する主体、とりわけ出発点は宗教的体験」と言う。波多野がこだわるのが、「将来」という表現だ。丸山氏は、これについて「西田哲学を意識しているのではないか」と指摘する。西田(幾多郎)は西洋と東洋の思想の融合を目指した京都学派の代表的存在。主に禅哲学を基盤に戦前の思想界をリードした。波多野も、キリスト教を基盤にするが、この学派の一人として数えられる。

 丸山氏は西田と波多野を比較して「未来はいまだ来ないもの、将来はまさに来ようとするもの。西田は『未来』を常用する。その時間理解は、『過去も未来もこの現在より規定せられる』と言うように『現在中心』の立場だ。これに対して波多野は『将来の現実性』を強調する『将来中心』の立場」と語った。

 波多野は二つの永遠に言及する。第一の永遠は、「時の中にあって主体が信仰において体験しうるもの」。第二の永遠は「時の真中に生きるわれわれ人間にとっては全く超越的」であり、「体験の事柄」ではないものだ。

 丸山氏は「終末の時に、神から与えられるものとしての永遠。この永遠について私の宗教的体験は効力をもたない。自らの哲学の出発点の限界を指摘する」と解説。

 「現在中心主義が基調の日本の現実に、キリスト者はどう向き合うか。今日の世界、日本との間に『つまずき』をもたらす」という現実を語りつつ、知人の最期の数日間の回心と変化の喜びに触れた。ルターにならい、「終末に生きるキリスト者が最後に問われるのが、『永遠に直面して』(coram aeterno)歩むことではないか」と励ました。