香港の戦後と教会の社会参与 連載「香港への旅」最終回②

 10月に開催された香港のキリスト教書展には、今年の反逃亡犯条例運動の情勢二関する書籍もあった。目立っていたのが、邢福增(イン・フクツァン)氏の説教集『我城哀歌 時代福音(私たちの街の哀歌 時代の福音)』だ。雨傘運動直後の2015年から反逃亡犯条例運動最中の今年9月までの説教を集めたものだった。同じく邢氏の『變局下的徘徊 從戰後到後九七 香港教會社關史論(変局の中でのさまよい 戦後から97年以降までの香港教会の社会関係史論)』(2018年)では、戦後の香港のキリスト教全体、特に福音派の社会関与に注目してまとめ、中国の影響が強まる中での香港の教会の在り方を展望する。先にこちらの内容を紹介しよう。

 中国共産党政権直後の1950年代は、中国から多くの難民が香港に訪れ、教会がその救済活動に尽力した。58年のデータでは70の支援団体のうち23がキリスト教関係だった。キリスト教学校も増え、福祉、教育の分野で政府と「パートナーシップ関係」にあった。

 60年代後半からは経済成長とともに、格差や労働問題が目立った。中国では文化大革命が起き、香港内の左派勢力は機に乗じて運動を展開。67年には「六七暴動」と呼ばれる大規模な反英反植民地運動に発展した。西洋のイメージがある教会にも、内外から教会批判が生じた。

 一方労働者問題に教会は動いた。エキュメニカルな立場の基督教協進会は権利擁護のための「工業委員会」を設置。福音派は伝道がメインの「工業福音團契」を発足した。異なる路線の二つの団体だったが、必要に応じて「工業委員会」は伝道をするようになり、「工業福音團契」も権利問題に取り組むようになった。

 70年代には学生運動が継続したが、その中で、出版活動が盛んになった。雑誌『橄欖』、出版社「突破機構」(連載第5回参照)、学生団体「學生福音團契」(FES)などが活動を本格化した。青年層の社会意識という内的要因に加え、外的要因として、ローザンヌ誓約によって伝道と社会的責任の使命が確認された。

写真=10月発行の雑誌「突破書誌」のテーマは「催涙香港」だった

 70、80年代に社会的責任に取り組んだ福音派のリーダーとして、滕近輝(フィリップ・タン)氏の歩みに注目した。滕氏は、「福音伝道が主であり、社会関与は副」としつつ、「二分法ではなく有機的な順序」だとした。それを「燃える柴は炎と分離できないが、まず燃える柴があって炎がある」とたとえた。

 84年に香港の中国返還の合意が発表。このときキリスト教会では超教派で信仰を確認する「信念書」を発表した。北京からキリスト教交流団の招待があったが、「宗教の自由」について声明を発表。滕氏も訪中団の一人に選ばれたが、当日突然キャンセルした。中国の影響力に抵抗を示したとも推察される。一方、88年のビリー・グラハムの中国訪問には、通訳で動向。その後も様々な機会に中国を訪ねるようになった。

 返還以降、中国の発展とともに、香港内での中国の影響(中国因素)が増してきた。2012年には愛国主義を教育に導入する動きがあり市民の抗議運動が展開した。14年の雨傘運動では、福音派を背景とする信徒、牧師らがリーダーになっていた。とはいえ福音派内では運動への参加に懸念を示す声もあり、雨傘運動で教会は分断した。15年の習近平の「宗教の中国化」発言、浙江省で相次いだ十字架撤去などのへの不安もある。17年香港行政長官の林鄭月娥(キャリー・ラム)氏が就任後発表した政綱の宗教の項目に「宗教事務小組(グループ)」の設置があり、これが宗教統制になるのではないかという議論が生じた。それまで香港で宗教に特化した部門はなかったのだ。

 『我城哀歌 時代福音』では末尾の文章で、「いよいよ香港が全体主義の中で長い闘いをしなければならないのかもしれない」と危機感をあらわにした。

 そして共産政権下のポーランドの教会の経験を紹介した。政権が教会に迫るのは①教会の孤立、分裂、②信仰と生活の分離、宗教の私事化、③教職者の妥協、④教会の特色を奪うことだ。このとき教会の対応は、①団結の維持、②人々が真理を求める心への応答、③迫害された人をキリスト者であるなしにかかわらずかくまう、④小グループでの信仰の養い、だったという。その後東欧革命で共産政権は倒れた。

 現代の特殊な条件として、中国が資本主義的な経済価値で人々の心を奪っていることに警戒する。「経済の追求が、人々の心の自由、民主主義、人権といった普遍的な価値にとって代わられている。 経済的な価値と別の価値を見せなくてはならない」と述べた。それが「日常生活の中で真実の価値を見出していくこと」だ。

 「〜の間」に注目した趙崇明氏は、雨傘運動では、経済至上主義の中心地、金融街中環(セントラル)を占拠したことに注目する。そこは一時的ではあったが、市民が寝泊まりし、読書、自由な議論、芸術創作をする公共空間になった。空間の占拠によって「中環価値」を別の価値に再創造する運動だったと評価する。趙氏は暴力による抵抗を求めない。むしろ日常生活にこそ、抵抗を見出すのだ。そのためには、単に消費者となるだけではなく、批判的に文化を読む「文化リテラシー」が求められるとした。