村岡崇光先生は、聖書を研究する者が一人残らずお世話になっている聖書語学の専門家です。33年の長きにわたって海外で教育研究に携わってこられたことから、海外において絶大な信頼を得ておられ、ヘブライ語、アラム語をはじめ、近年ではギリシア語の文法書や辞書といった、研究者はもれなく手元に置いて日常的に参照する良質な道具を数多く出版してこられました。2010年に出版された『聖書神学事典』(いのちのことば社)の最初に置かれているのが、村岡先生の書かれた解題「聖書の言語」です。

 さて、本書はこの聖書語学の大家が、聖書を原語で読まない日本の読者のために、その長年の教育研究の成果を惜しみなく提供している本です。本体部分は「Ⅰ.ヘブライ語」、「Ⅱ.ギリシア語」、「Ⅲ.アラム語」、「Ⅳ.旧約聖書と新約聖書の架け橋としてのギリシア語」の四部構成で、それぞれ複数の比較的短い章において(ただしダビデとバテ・シェバを扱う第Ⅰ部6章は長大:50〜110頁!)、「原語で読んでみて初めて味わえるようなこと…また翻訳だけで読んでいたのでは見えてこない解釈の可能性」が、「具体例をあげながら」説明されています(18頁)。特に、それぞれの聖書言語と日本語との文法的な違いや単語の用例などから、次々と細かなニュアンスを読み取るあたりは、まさに目から鱗(うろこ)です(聖書を原語で読んでいるはずの人にとっても、教えられること満載です)。

 圧巻は七十人訳聖書を扱う第Ⅳ部で、ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳した訳者が何を想像していたかを想像する村岡先生によって、作業現場が鮮やかによみがえるようです。もちろん、「聖書を原語で読んだからと言って、解釈上のすべての疑問が氷解するわけではありません」(18頁)。例えばバテ・シェバの主体性の度合いや、フィレオーとアガペーの使い分けなど、自分の理解が先生の理解と異なっていて焦った個所もあります。そうした箇所を通しても、原語の知識が理解の可能性を豊かに広げてくれることを実感します。

 何よりも本書の特徴は、各所に散りばめられている村岡先生の戦争責任を担う信仰者としての姿勢でしょう(例:7〜9、 67頁)。一般的なヘブライ名を持つウリヤがことさらに「ヘテ人」として紹介されているところから、このテクストの根底にある拭いがたい差別意識を察知するあたりは、人間の罪深さに対する先生の深い洞察が現れています。深い学識と誠実な信仰は、本来一体なのです。本書を通して、聖書原語の学びを志す人が多く起こされることを期待します。

 (評・河野克也=日本ホーリネス教団中山キリスト教会牧師

聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』 村岡崇光著  いのちのことば社、1,760円税込、A5判