「段差を超えて」~震災から9年目を迎えて~ 近藤愛哉(保守バプ・盛岡聖書バプテスト教会牧師、 3・11いわて教会ネットワーク代表)

写真=2月に行われた3.11いわて教会ネットワークミーティングで。開拓教会の牧師・宣教師たちを中心に集まった

 東日本大震災から丸9年となりました。私たちは、この地上に起こるすべてのことは神の主権によるという信仰を告白します。だとするならば、「あの震災を通して私たち教会は何を学び、神にどのような変化を促されて来たのだろうか」と自問し続けることもまた、求められている信仰の行為と言えるでしょう。岩手県の地域教会に仕える牧師として、また震災後に発足した「3・11いわて教会ネットワーク」に関わる者として、私が経験し、見せていただいている変化を、「段差を克服する教会」という視点でお分かち致します。

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味わえた「主の教会」の一体感

 震災後、多くのクリスチャンのボランティアが国、県、地域を超えて、教会による被災地での支援活動に参加しました。震災による大きな痛みを負った広い地域で、これまでには類を見ないような形で教会を経由した人の流れのうねりが起きました。さらに、被災地に移住し、中期・長期にわたる教会の活動に参与する働き人たちが数多く起こされました。それぞれの地域に腰を据えた働き人たちの中からは、「『支援者(教会)』と『被支援者(被災者)』という関係を乗り越えて、置かれた地域の中で、人と人とのフラットな関係を築きたい」との声が上がりました。それは、教会が一段高いところから何かを提供するというような構図ではなく、その地で共に生きる者として、教会が神から与えられた善きものを分かち合うという視点への転換を促す声でもありました。ともすれば教会はそれぞれの宣教地において自分たちを一段高くするような段差を作ってしまうかもしれません。しかしそのような段差を踏みならし、置かれた地で共に生きること、これはあの震災を通して教会が学んだ宣教の一つの本質ではないかと思います(ルカ12・33参照)。

 教会間にも、その協力を妨げ、関係を不健全な形にしてしまう段差が生まれます。先述した支援者と被支援者の構図は教会同士の関係にも当てはまります。大きな教会や団体が、小さな教会を支援するという視点は、必然的に一段上に立つ教会からより弱い教会にという構図や力関係を生み出しかねません。そのような関係は優越感や劣等感、そして自己憐憫を助長します。しかし、この9年の間に、被災地に立ち、その地での活動に従事する教会を知り、その教会の痛みや働きを自分の痛み、自分の働きと受け止めて協力し、支援するという視点が広がったように思います。東日本大震災以降も各地で災害が発生し、それぞれの地域で教会による働きが進められました。私もいくつかの地域に駆け付け、教会によるボランティアに参加しましたが、そこでいつも味わうことができたのは、地域教会、教団教派という段差や垣根を超えて、私たちは「主の教会」であるという一体感でした。

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 岩手県では、この9年間で沿岸地域を中心に新しい教会が生まれ続けています。「被災地支援活動」が始められた当初、多くの場合、それは新しい教会を生み出すことを前提とした働きではなかったように思います。しかし地域との関りが深まる中で、そこに立ち、福音を分かち合う教会の必要が意識され、祈りが積まれ、時に地域の人々からの期待を受ける形で教会が誕生しています。震災以前には、県内各地から届く、教会の閉鎖や、働きの終了の知らせを聞くばかりでしたから、大きな痛みの中にあっても、教会を通してその希望を分かち合おうとされる神の憐れみの深さを覚えています。同時にこれからも、地域との段差、そして地域教会間の段差を克服し続けることが私たち主の教会に与えられた課題だと認識しています。

※新型コロナウイルスの影響で、東日本大震災から9年を迎えた3月11日前後の記念集会が中止となりました。今回は岩手、宮城、福島の各地の教会ネットワークに東日本大震災から9年の現状と展望を寄稿していただきました。