キリスト教会の三大祝祭は、クリスマス(降誕祭)、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨祭)です。このペンテコステは、ユダヤ人の三大祭りの一つである七週の祭り(五旬節・ペンテコステ)の日に、主イエスの約束された聖霊が降臨し、主の教会が誕生したことを記念しています。更に、エペソ書に観るようなユダヤ人と異邦人の一致の完結をも示唆する霊的祝福として捉えることができ、このペンテコステの日を迎えるにあたり、私たちも主の教会の拠(よ)るべきところを思い起こしつつ、この日を与えてくださった主を喜び、共に神を褒めたたえましょう。
「拠る」という言葉には、根拠や基準、理由の他に、「立てこもる」という意味があります。閉じこもり、引きこもるのではなく、敵に負けないように、拠りどころとするものをしっかりと握ってそこに立ち続けるということです。ペンテコステの日、教会が誕生した時の主の聖徒たちは、何を拠りどころとし、そして何に立てこもったのでしょうか。

一つは復活の主イエスが共におられるという信仰を拠りどころとし、そこに立てこもったのです。いかなる中を通ったとしても、初代教会の信仰の先輩者たちは、復活の主イエスを信じる信仰を拠りどころとして告白しました(使徒3・15)。そして時の権力による試練があったとしても、よみがえりの主が共に居られるという信仰にこそ立てこもったのです。信仰者にとってはいかなる現実よりも、罪と死と滅びを打ち破り、よみがえられた勝利の主が共におられるという真理の方が大きかったのです。

次に聖霊降臨によって誕生した主の教会は、主イエスのみ言葉を拠りどころとし、そこに立てこもったのです。「使徒の働き」は節目節目で、「こうして神のことばは、ますます広まって行き」(6・7、他に12・24、19・20)という特徴的な言葉でまとめています。迫害によって聖徒たちと引き離され、散らされて、共に集まれなくなったとしても、主の教会は神のみ言葉に拠り頼み、立てこもり、土台として、困難がある度にむしろ主の言葉と共にますます前進していったのです。

最後にペンテコステに誕生した主の教会は、聖霊を拠りどころとし、聖霊に立てこもったのです。あのペテロが素晴らしいから、聖霊に満たされたのではありません。むしろ主イエスを三度も否定したペテロだからこそ、主イエスの約束された聖霊の力が必要だったのです。自分の力に拠り頼んでいたペテロが、聖霊に満たされることで「ナザレのイエス・キリストの名によって」(使徒3・6)と宣言する者となりました。ペテロだけではなく、初代教会の聖徒たちの全てが聖霊に満たされて祈り、聖霊の圧倒する臨在にこそ立てこもりました(使徒4・29、31)。その結果、この世のしわ寄せを受け続けるのではなく、聖霊によって誕生した主の教会は、聖霊による影響力を与え続けたのです。

安全を確かめて用心深く生きることを「石橋をたたいて渡る」と言いますが、若き日の私は「石橋を壊して渡らない」者でした。しかし聖霊の恵みを体験したことによって変えられ、聖霊に拠る力があるからこそ、明日のことを心配しないで眠ることができるようになりました。神学校に入学し、新潟で開拓伝道を始め、「聖霊が…臨むとき…力を受け…地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1・8)という聖句の実を体験する者となりました。「力を受け」の「力」は、ダイナマイトの語源となる言葉で、人の常識を超えた大きな力などですが、頑(かたく)なな自己正義を深い真理へと変革し得るために、確かに聖霊が与えてくださったのです。

感染の広がり、デマ、愛が冷えていくこの世にあって、主の教会は天国の鍵が渡され、よみの門も打ち勝つことはできない(マタイ16・18、19)という、復活の主イエスの言葉に立てこもります。「STAY HOME」が勧められています。恐れや不安の中に引きこもる人々がおられます。キリスト者も同じように自分自身に閉じこもることのないように、ますます聖霊に扱われることに立てこもってみませんか。そして今こそ聖霊の力をいただいて、救い主であり、勝利者である復活の主イエスを力強く証ししていこうではありませんか。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7・37、38)