宗教改革の過ちを正す? N・T・ライト義認論に対する改革派的調停案②

2010年に米国ホイートン大学での神学会議で行われた、トリニティ神学大学教授ケヴィン・ヴァンフーザー氏の講演の要約、解説。同大学修士課程在学中の岡谷和作氏による。

 N・T・ライトの義認論と従来の義認論

前回はライトの神学的方法論全般に関してでしたが、いよいよ本題である「義認論」に入ります。ヴァンフーザーはまず、ライトの義認論が議論を巻き起こしている大きな理由は宗教改革の形式原理(聖書のみ)を内容原理(信仰義認)と対峙(たいじ)させていることにあるとします。ライトは宗教改革を「正そう(Wrighting)」としているのであり、ライト自身は宗教改革の良き伝統は「何一つ失われていない」と述べます。しかし、改革派の視点から見るとまるでパウロ神学がバラバラになってしまっているかのように見えるのです。
例えば従来「神の義」とは「神の正義を執行する意思」であり、神自身の義という性質に物事を適応させることだと考えられてきました(*1)。 しかしライトや「パウロ神学の新視点」(NPP)の立場において、神の義とは「神の契約への忠実さ」を表す専門用語なのです。神の正義の執行は、「イスラエルを通して世界を正す」という契約への忠実さの一つの側面だとライトは捉えます(*2)。 新約聖書においてイエス・キリストを通して示された「神の義」(ローマ3・21等)とは、「アブラハムを通して全世界を祝福する」という契約の成就だと捉えるのです。神の義を伝統的な「神の正義の執行」と捉えるか(*3) 「契約への忠実さ」と捉えるかが従来の伝統とNPPの重要な相違点です。
ではライト神学の枠組みにおいて、私たちが義とされる(義認)ということは、どのような意味を持つのでしょうか、、、、

2020年11月29日号掲載記事