変わったもの、変わらないもの いのちのことば社物語 最終回

 

多様性の中に豊かさがある

いのちのことば社創立の原点は、神のことばである聖書への信頼と、失われた魂の救いへの情熱だった。言い換えれば、聖書信仰と福音伝道である。それから70年。何が変わり、変わらないものは何なのか。
媒体は大きく変わった。活版印刷によるトラクトや雑誌・書籍・新聞の発行から始まり、90年代に急速に進んだコンピューター化で印刷技術は激変し、それに伴って編集や広告制作の現場も大きく様変わりした。そもそも「文書伝道」そのものが、文章を印刷して頒布するというビジネスモデルから、インターネットで不特定多数に届く情報をいかに効果的に提供するかというモデルに転換しつつある。頒布の経路も、書店や郵便からネット通販やアプリに転換してきた。
その中で、情報がネットを通して無料で手に入る時代に、どうやって福音を文書で提供する働きを持続していくかは、眼前に突き付けられた大きな課題である。媒体の形や頒布方法は変わっても、一人ひとりの文書伝道者/スタッフの経験と試行錯誤の積み重ねによって「伝道グループ」に蓄積されたノウハウは無形の財産である。
ネット社会の利点は誰でも安価に簡便に伝えたいことが発信できる点にある。だがそれはまた、一方で偽物も、見た目には真実と判別できない様相で容易に発信できてしまうということでもある。ネット上には怪しげな伝聞や不正確な記述が氾濫している。信ぴょう性を精査することなく好みに任せて安易に拡散できてしまうネットでは、フェイクニュースが瞬く間に広がり、真実な情報・働きを阻害する無益なうわさ話が簡単にまん延する。
実際、その特性に乗じて異端・カルトがクリスチャンの日常生活や教会をも浸食し、深刻な被害が生じている。優秀なIT知識を持った若者が勧誘されてマインドコントロールを受け、無賃労働で教祖や組織に24時間〝献身的〟に労力をつぎ込んで作られている異端のネットメディアは、質の高い魅力的なものに映る。一見しただけでは牧師でも判別が付かないものもあり、クリスチャンや教会が惑わされるケースが相次いでいる。長年の取材活動によって情報が集約されているクリスチャン新聞を持ついのちのことば社には、異端・カルトに関する問い合わせが頻繁にある。「キリスト教」を名乗るカルトが事件を起こせば、一般メディアからもクリスチャン新聞に問い合わせや取材が入る。「聖書信仰」を掲げて社会にも有益な情報を発信してきた働きが評価を得ていると言えるだろう。

福音理解の広がりに柔軟対応
霊性への関心高まり成熟が課題に

その「聖書信仰」の内実の変化についてはこの連載の第3回でも触れたが、実際の展開にも変化がある。70年前の創立当時、聖書の福音を真っ直ぐに説くことは、イエス・キリストを信じれば天国、悔い改めて信じなければ地獄、というような荒削りなものだった。背景には、その時代の「福音派」の福音理解が影響していた。だが福音理解の深まりと広がりに伴い、福音派の伝道のアプローチも大きく変化した(当連載第5回参照)。
「聖書信仰」とは何かについては、今日に至るまで福音派の中で様々な議論がなされてきた。「聖書は誤りなき神のことばである」というその信条の捉え方には、人によっても教派によっても幅がある。近年では聖書論だけではなく、16世紀プロテスタント宗教改革以来踏襲されてきた義認論や贖罪論にも、新たな視点や再考が提起されている。
いのちのことば社は一体どちらに立つのか、と迫られることもある。そうした議論のある分野の様々な立場の書籍を出版しているからだ。2015年に話題作『聖書信仰 その歴史と可能性』(藤本満)を出したが、17年にはその問題提起を聖書信仰の「ゆらぎ」と見て批判的に捉える『聖書信仰とその諸問題』(聖書宣教会教師会)も出した。また、近年パウロ神学の新しい視点(NPP)が注目されているが、その提唱者の中核的存在と見なされる英国の聖書学者N・T・ライトの本も、ライトを批判するジョン・パイパーの本も出す。それは一見すると節操がないように思われるかもしれない。だが、どちらも福音主義に立って主張を展開している著者・著作である。
いのちのことば社は、そうした見解の相違は福音の豊かさの表れであり、提起された問題を読者が考える手がかりとして多様な視点を提供することは有益だと考えている。教派や神学校の系列に属する出版社であれば、異論の生じる問題にはどちらかの立場に立って出版活動を推進するだろう。しかし、いのちのことば社は最初から「超教派」のミニストリーなのだ。福音主義・聖書信仰という創立以来の確信に軸足を置きつつ、時代にしたがって移り変わる視点の変化には柔軟に対応する。それは、イエス・キリストの福音は変わらないが福音理解は時代や文化によって変わるし、多様性の中で一致を見出しうることを、多様な教派的背景の同労者たちと共に働く中で身をもって知っているからだ。
その意味で、福音派の中でも近年、霊性に対する関心が高まってきたことは、カトリックや東方教会も含むキリスト教2千年の伝統の中に自らの立ち位置を据える上で重要な動きである。初期の出版物の中にはカトリックやリベラル派に批判的なアプローチが目立つが、現在ではそれらの中にも自分たちが受け継いできた霊的な遺産があると評価し、そうした伝統の中からも学ぼうとする姿勢の本や特集も増えてきた。
それは福音派が成熟してきた証左といえよう。だが同時に、それを出版物で世に問ういのちのことば社とスタッフ一人ひとりの霊性の成熟が問われてもいる。