「良い行い」で地域を照らす メッセージ 大友 幸証 塩釜聖書バプテスト教会牧師

私の妻は気づくと新しい書籍を購入していて、我が家の本棚に新しい風を吹き込んでくれます。最近購入した本のうちの一冊は、いのちのことば社から出ている三浦綾子著『塩狩峠』の漫画版でした。
先日、それを手に取って読んでみました。かつて何度か小説で読んだことがあり、壮絶なクライマックスは覚えていましたが (まだの方は、ぜひお読みください)、そこに至るまでの主人公長野政雄さんが、どんな人生を歩んできたかについては、全く覚えていませんでした。改めて読み、彼が自分の若さとそこから来る性的欲求に対して葛藤し、それをきっかけにクリスチャンになっていく姿がありありと描かれていました。
これを書いた三浦綾子さんの時代はそんなに前の時代ではないですが、当時は多くの人々が自分自身の中にある罪と真摯に向き合い、十字架の福音を鮮烈さをもって受け入れていた様子が、この作品を通して垣間見ることができて改めて感動しました。
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しかし、現代はどうでしょうか。SNSの影響もあり、あらゆる情報と世界観が飛び交い、世界が急速に「なんでもあり」の時代になってしまい、罪が罪として自覚されない時代に突入しました。たとえ罪の自覚があったとしても、自分に都合の良い情報を集めて、自分を正当化できるようになったと思います。当然の結果として混沌(こんとん)と混乱が世界を覆うようになりました。
それゆえ、人々は「本物」を求めるようになっています。偽りの情報があまりにも多いことに気づき始めたからです。例えばインターネットショッピングサイトにある「レビュー」(評価コメント)は、「本物」を見分けるための重要な機能を果たすようになりました。すでに購入した人たちの意見を聞いて、その商品が本物かどうかを判断する行動パターンは当たり前になりました。
ただし、そのような人間の行動パターンを利用して、自分の偽物商品について高評価や評判の良いコメントを誰かにたくさん書かせて、あたかも「本物」を演出して、その商品を売り飛ばす人々も出てきました。だから、人々はレビューすら慎重に読み込み、あるいは他の情報とも照らし合わせて、総合的な判断をくだすようになりつつあります。
この行動パターンは、人々が教会を見る時にも自然と当てはめられるようになってきているのではないでしょうか。
人々は教会が本物かどうか、私たちが考えている以上に観察し調べています。会堂の中には入らないけれど、さまざまな「レビュー」によって判断します。ネット検索はもちろんのこと、その教会が地域の中でどのような貢献をしているのか、その教会に連なるキリスト者の生き方や生き様はどうなのかなどが、人々の判断基準に大きな影響を与える時代になってきていると思います。「偽物」が多いからです。
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このような混乱の時代に、改めて主イエスのこの言葉を思い返す必要があると思います。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5・16)

この聖書個所で、「光」は「良い行い」と言い換えられています。光は思想的で観念的なものではなく、具体的に表される「良い行い」であり、それを通してしか、残念ながら人々は教会をレビューすることができないのです。
初代教会を見てみると、給食事業があり、寡婦支援があり、飢饉支援もありました。これらは当然のように教会で行われていたことでした。その上で宣教活動があったのです。
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2021年、震災から10年が経過しようとしています。あの時、私たちは被災地に立つ教会として、たくさんの方々にご協力をいただいて、震災支援活動を行いました。水や物資がない状況の中でも、教会にはたくさんの支援品が集まり、近隣の方々にもお裾分けをしながら回りました。
あの時から教会に対する地域の評価が明らかに変わりました。私たちの教会は、もともと社会貢献には否定的で、教会は伝道をしていれば良いという体質と伝統をもった教会でした。
しかし、震災支援や関わる人々が救われて行くことを通して、宣教と社会貢献は表裏一体であるという確信に至りました。現在はフードバンク活動を通して、教会員が毎月自分の住んでいる地域に出ていき、訪問し、食料品を配り、話を聞きつつ、人々に仕えています。
一方、牧会書簡など(Ⅰテモテ3・1~13、テトス1・5~9、エペソ5・21~6・9)を読むと、家族のあり方もまた地域に対する「光」であり、蔑(ないがし)ろにしてはいけないことが記されています。支援活動に没頭し、自分の家族や神の家族との時間を犠牲にしてしまったことの大きな反省が今でもあります。人を助けることも大切ですが、宣教の基盤である自分の家族や、神の家族との時間が最優先であることを肝に銘じ、バランスを失わないようにしたいものです。
コロナ禍だからこそ、教会ができる地域貢献が何かしらあるのではないかと思います。新しい年、主の導きの中で、それら一つ一つが主の光として地域を照らし、人の心を照らし、本物の神であるイエス・キリストが力強く証しされていきますように。