「アジアから天皇制問う視点欠落」 「第55回靖国国営化2・11集会」で金氏

「第55回 なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化2・11東京集会」(同実行委員会主催)が2月11日、同東京集会のブログで動画配信され、日本キリスト教協議会総幹事の金性済(キム・ソンジェ)氏が「アジアから見た『明仁天皇』の30年・代替わり・今」と題して三つの講演をした。
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第1部のテーマは「問い直される『平成』の30年」。最初に2019年の文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長の発言を紹介。それは「戦争犯罪の主犯の息子(明仁天皇)が本当に申し訳なかったとひと言言えば、すっかり解消される」といった内容だった。金氏は「『ひと言でいいのだ』の中には、賠償金ではなく真実の言葉がほしい、過去の過ちを認めた上での謝罪がほしいとの意味にも解釈される」。この言葉が出た背景には「36年間の朝鮮植民地支配は、朝鮮総督府が天皇直属の統治機関だった。あの耐え難い歴史体験は、天皇支配によるものだと韓国人は理解しているから」と指摘する。「慰霊の旅で明仁天皇は、『歴史に謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ』などの言葉以上は語らなかった。文議長は明仁天皇の30年間の歴史に関する言及で、朝鮮植民地支配の過ちに答えていないから、あのような発言をしたと考えられる」

金性済氏

丸山眞男の「超国家主義論」を手掛かりに「天皇制の無責任体系」にも言及、、、、、

(この後、内田樹氏の『街場の天皇論』にも触れ、日本のリベラルな天皇制の考察に、虐げられた側のアジアの視点の欠落を指摘します。2021年3月7日号掲載記事

 

 

 

 

。「丸山は、天皇という仕組みに戦争責任を問おうとしても、無責任とならざるをえない体系にあったと説明している。また、超国家主義としての天皇制は、抑圧が下へ下へと委譲していく原理であると説明している。だが、天皇制国家神道がその下方移譲する抑圧の最後の到達点としてのアジアに及ぼした加害とその歴史責任への考察はほとんど回避している。リベラルな学者、知識人の間でさえ、国家神道としての天皇制が東アジアに与えた被害という点から天皇制を問うことが欠落している場合が多かったのではと指摘したい」
内田樹氏の『街場の天皇論』にも言及。「内田氏は、『象徴天皇には果たすべき具体的行為があり、それは死者と苦しむ者の傍らに寄り添う鎮魂と慰籍(いしゃ)の旅のことである』と語る。興味深いのは、天皇制を歴史的に長く政治文化として抱えてきた日本の統治原理には、楕円的な二つの中心軸があり、政治が暴走するとき、天皇という軸がそれを抑止する力になっている、この天皇制があるから日本社会が安定する土台となっていると内田氏は評価する」
だが、「天皇制を日本人のアイデンティティの問題として捉える一方で、日本による植民地支配、侵略戦争で犠牲を強いられたアジアの人々という『虐げられた他者』の苦難の歴史の地平から天皇制を捉え直す考察が全く欠落しているという疑問が残り、ここに丸山をはじめ、現代日本のリベラリズムの中にさえ無意識に、根深く潜在するナショナリズムを見出す」
「明仁天皇は、本来なら『平成』『昭和』という歴史を批判的に相対化しえる時代的位置に立っていたが、慰霊の旅という象徴行為をしながら裕仁天皇の戦争責任を抽象的に戦没者の鎮魂の問題に転化してしまった。とりなし、心慰める共感行為の旅を続けることで、国民自身が歴史に誠実に向き合う批判的議論を経験することなく、75年間が過ぎてしまったとも。こうして歴史の責任問題について考えを深めない無答責の体質が国民の歴史理解と政治文化の中に作られてしまったとの視点から天皇制について問いかけ続けなければならず、これも今日の日韓関係の膠着(こうちゃく)問題の根底にある背景と考える」と語った。
第2部「天皇制と日本の朝鮮植民地支配における『皇民化政策』とは」、第3部「問いかけられる象徴天皇制と『国民』のアイデンティティー」の講演も、同ブログ(URL https://peace815liberal211.at.webry.info/202102/article_1.html)で視聴可。