避難先で主に出会う 私の3.11 ~10年目の証し第二部 震災で主に出会った②

写真=相馬市松川浦付近。気持ち良い風が吹いていたが、ここも津波被害の現場だった

前回

「津波警報。速やかに避難してください」。2011年3月11日、東日本大震災発生直後、南相馬市の防災無線が鳴り響いた。同市の冨澤利男さん(接骨院・鍼灸院院長)は妻と娘、寝たきりの母、犬のゴンを連れて、車で30分西の横川ダムの馬事公苑まで避難した。夕方には戻ったものの、「沿岸部が跡形も無くなっていることを知らずに自宅にて過ごしました」。家のライフラインは無事だったが、度重なる余震に不安を覚えながら過ごした。

12日には、沿岸部の壊滅状態が知らされた。死者数も予想がつかない。「そんな中、福島第一原発に異常発生! 10キロ圏内は緊急避難し、夜には20キロに拡大した。我が家は25キロなので緊急避難指示はありませんでした」

13日には20~30キロ圏内は屋内避難となり、目に見えない放射能におびえた。少しでも原発から離れようと、10キロ北にある実家へ向かった。「国道6号線は何とか通行することが出来たがあまりの変わりように息をのんだ。田んぼや畑は湖のように水がたまり、電信柱はなぎ倒され、ガードレールも針金のようにまるめられ、国道を越えて津波が流れ込み、至る所に漁船やモーターボートがひっくり返っている。1・5キロほど東の太平洋に係留してあった船が津波でここまで運ばれてきた。なんともすさまじい光景でした」

実家には兄家族が避難していた。冨澤さんが趣味とする陶芸用の窯は、崩壊していた。「それでも周囲からすれば被害は最小限でした」

14日は、自宅と実家を行き来した。15日には、原発の水素爆発が明らかになり、山形の接骨院仲間の友人宅へ避難することを決心した。「娘の育美が通っていた同盟基督・原町キリスト福音教会から相馬市の相馬キリスト福音教会に避難している方々に物資を届け、山形へ妻、母、娘、ゴンを連れて行った。父は兄家族と過ごした。当時、病の母を巡って父との関係は複雑だった。だが、原発の2回目の爆発があると、兄家族は滋賀県へ避難し、父も山形に合流することになりました」

17日に、相馬キリスト福音教会に山形で買い出した物資を運び、父を連れて山形へ戻った。
18日には、山形恵みキリスト教会の武藤正信牧師家族らが支援物資を届けに来てくれた。「育美と武藤牧師のお嬢さんのみどりさんは友人でした」

育美さんは、10年11月に洗礼を受けた。冨澤さんは、その洗礼式と元旦礼拝には出ていた。だが、当時仏教系の新興宗教に入っていて、朝はお経を上げている生活であり、「教会とは無関係」と思っていた。「厳かで良いとは思ったが、まさか自分がキリスト教信仰に至るとは思わなかった」と振り返る。
山形では、3月20日の礼拝出席に続けて22日に聖書の学びを始めた。そこでイエス・キリストが罪からの救い主であるという話を聞く。「自分が罪人であること、それは十分承知していた。その罪を赦してくれる人がいるのか? 本当にその人を救い主と信じれば自分の罪を許してくれるのか」。冨澤さんの心は動いた。「『本当にそうですか』と私は武藤牧師に尋ねた。牧師は『そうです』と答えられた。私は、自分を赦してくれる人がいるのなら信じます、と、イエスを心に迎えた。なぜか分からないが涙があふれました」

学びや祈祷会、礼拝に出席する間、山形県接骨師会と協力して避難所の支援をした。体育館には福島県の双葉郡、相馬郡から千200人が避難していた。「避難所によって状況が違っていた。相馬地方の避難所は、放射能を恐れて支援物資が届いていなかった。行方不明の家族を探せない。牛や馬も置き去りにしてこなければいけなかった、という方々がいました」
4月には、鍼灸学校時代の友人らが支援活動で相馬地方の避難所を訪れた。阪神淡路大震災以来、ボランティア活動を継続している人たちだった。「避難者の方々は体育館の冷たく固い床の上で寝ているため、身体のあちこちが痛くなったり、不眠症になってしまったりしていた。鍼灸治療は道具も場所もとらず、その場で治療ができました」。毎週5、6人の有志が土曜日に来て冨澤さんの家に泊まり、活動が続いた。

冨澤さんは、5月15日に洗礼を受けて翌16日に南相馬に戻った。支援活動は7月まで続いた。この経験を生かし、16年の熊本地震でも支援活動をした。
母や父との避難生活は緊張を強いられた。特に父については許せない思いが募っていた。だが次第に関係性に変化が生じようになる。(つづく)