5月30日号紙面:【連載】東京、千葉で都市機能混乱 私の3.11~10年目の証し いわきでの一週間⑤
東京、千葉で都市機能混乱 私の3.11~10年目の証し いわきでの一週間⑤
写真=駅で立ち往生する人たち(当時)。写真提供=青柳聖真
「私の3・11」第三部は、私と当時出会った人たちの体験を中心に、10年を振り返る。【高橋良知】
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滞在していたいわき市のグローバル・ミッション・チャペル(平キリスト福音教会)では、教会メンバーを中心に近隣への救援活動が始まった。原発事故の影響で流通はストップし、市内から人々の姿が消えていったが、避難所やそれぞれの場所にとどまらざるを得ない人々もいた。そのような状況を知り、放射能の不安もある中だったが、関東方面から支援に駆けつけてくる人々がいた。時間を巻き戻し、千葉県と東京都心の教会の動きを見ていこう。
▼2011年3月11日
千葉市の長老教会・おゆみ野キリスト教会協力宣教師の大舘晴明さんは、当時、八街市のリサイクルショップに勤めていた。「店のバックヤードで作業をしていたら、揺れを感じた。最初は小さかったが、大揺れになり、外に出た。立っているのがやっとで、再臨が来たのかと思った」と当時を振り返る。自宅のある千葉市方面は、港で爆発したタンクの煙が巻き上がっていた。信号は止まり、渋滞していた。妻は東京の友人と会っていて、すぐに帰れない。余震も続き、今後何が起こるかわからない。食料品は店先から消え、ガソリンスタンドには行列ができていた。
国際SILの働きに従事するウイクリフ聖書翻訳協会宣教師の高田正博さんは、八街市のアパートにいた。外に出ると電信柱が揺れていた。
フィリピンのSILの仲間から「同僚が成田空港で立ち往生している」と連絡が入った。
成田空港までは約30分だが、往復の間にガソリンがなくなった。当時のおゆみ野キリスト教会牧師、ダニエル・アンダーソン宣教師から連絡が入った。米海軍出身のダニエル宣教師の行動は早かった。被災地支援を見込み、教会員に呼びかけて、物資やガソリンを集め始めた。
東京の都心で教会開拓を始めていた福田真理さん(長老教会・グレースシティチャーチ東京牧師)は、千葉県印西市の東京基督教大学の卒業式に出席していた。「説教中だったと思うが、説教者が地震が収まるように祈ったけれども、揺れはいっそう大きくなり、皆中庭に避難しました」
この日、福島第一原発から近い保守バプ・福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師・ちえ子夫妻も出席していた。
交通機関はストップし、その日は、同大学の寮に泊まった。東京の自宅には妻や子どもたちがいた。一人の息子はアルバイト先から5時間かけて歩いて帰った。
グレースシティチャーチ東京で奉仕しながら新たな教会開拓の準備をしていた青柳聖真さん(現グレースハーバーチャーチ牧師)は、米国から帰国したばかりだった。子どもの入学準備のために練馬区の大泉学園にいた。「交通機関が止まった。そばに妊婦の人がいたのでクリスチャンの知人に車で来てもらい、見送りました」。青柳さんたちは深夜に動き出した電車で帰宅した。
グレース・シティ・チャーチ東京宣教師のアビ・ラウザーさんは東京・中央区佃にあるマンション1階でエレベーター待ちをしていた。揺れが大きくなり、ロビーに避難した。子どもと両親は28階にいた。米国では2001年の9・11テロを経験している。「世界貿易センタービルが崩れる映像しか頭に浮かびませんでした」
揺れが収まると、階段で28階まで上った。1歳と7歳の子ども、両親の無事を確認した。5歳の次男は空手道場にいた。しばらくして28階から見下ろすと、帰宅する人たちで道路は「スーツの海」になっていた。その後幼稚園の避難所で過ごした。
夫のロジャーさんは、地下鉄で移動中だった。緊急アナウンスがあり、電車は何度か止まりながら駅に到着した。駅員がメガホンで呼びかけ、車内アナウンスが鳴り響き、人々は必死に携帯電話で連絡をとろうとしていた。
外に出ると、歩いて帰宅する人々であふれていた。
「通りかかった銀行のビルのモニターを前に人々が集まっていた。私も立ち止まった。そこには恐ろしい映像が映し出されていた。繰り返される光景が信じられなかった。黒い波が、防潮堤を越えて町に流れ込み、何キロも車や船や家を押し流している…」ロジャー・W・ラウザー著『美の香り』(2021年)
「皆じっと映像を見ていた。怖くて何も言えないという雰囲気でした」 (つづく)