イエスが仕事のパートナー 『福音中心の人生 仕事編─仕事を通して神に仕える!?』
イエスが仕事のパートナー 『福音中心の人生 仕事編─仕事を通して神に仕える!?』
私たちの多くは、仕事はつらい、苦しい、ストレスがたまるものと感じているだろう。だが、仕事をしている時に遭遇する日々の困難に対し、神の御霊に頼る忠実さにより悔い改め(回復・方向転換)へと導くことを本書は指し示す。
本書では、神が私たちをキリストに似た者とする生涯のプロセスの中で、どう仕事を用いられたのか、イエスの働きが日々行っている仕事にどう適応されているのかを、10課を通して学ぶ。「神は、仕事を通して私たちをイエスに似るように変えようとしておられ、そのために周囲の人々(同僚、顧客、隣人、上司、仲間、部下、子どもたちなど)や仕事そのものの課題を用いられる。良いことも、悪いことも、美しいことも(醜いことでさえ)、(中略)御父の栄光となるよう、意図しておられる」と語る。
例えば、第1章「福音中心の仕事」の「天職に対する深い理解」の項では、天職(使命としての仕事)、召しについて学ぶ。すなわち、天職はイエスをパートナーとし、神の素晴らしい目的のために王なる神への奉仕として行うことであって、仕事を神と切り離し、生き残るための手段、自分の努力や成功を高々と掲げる手段ではないと教える。
第5課「新しい態度」では、「仕事における両極端」の項が興味深い。両極端とは、無我夢中と怠惰だ。「仕事中毒(無我夢中になる人)は、恐れやプライド、不信仰に支配されており、怠け者は神が与えてくれた賜物を神の栄光のために用いないことで神への不信感と無関心を表していると言う。その傾向を変え、神を私たちの中枢とし続けるには、生活パターン、動機を変えることであり、それは私たちを召してくださった神への信頼から生まれると教える。
第6課「しもべ」の項では、「仕事は私たちのアイデンティティーではない」と教える。すなわち、神は私たちを何かするから価値があるとみなされる労働者のようには扱わない、何をするかにより私たちの本質が決められるわけではない、イエスが神の家族にある信頼された息子や娘としての「真の人間性」をくださるのだ、と。
第10章「毎日の安息」では、福音中心に休息を追い求めることによって、どう仕事と余暇を神の権威の下に戻せるかを学ぶ。すなわち、霊的休息は自分でもがくことをやめ、イエスの臨在を経験することであり、その時に重荷は取り除かれ、偶像は王座を奪われて、代わりにイエスが私たちを満たし、働いてくださるのだ、と。
自分の仕事に意味を見出したい、自分の仕事が神にとって価値あるものであることを知りたい、と願っているクリスチャンに、ぜひ一読を勧めたい。