岡田 仁(おかだ・ひとし)

富坂キリスト教センター総主事。同センター「人間関係とコミュニケーション研究会」担当主事。日本基督教団牧師。明治学院大学非常勤講師。共著『行き詰まりの先にあるもの―ディアコニアの現場から』(いのちのことば社)ほか

分断・対立の中で「もう一つ別の世界」「神の国」に招かれている

キリストの福音を「和解の福音」と捉える理解が近年、多くの分野で重視されてきた。それは神学のみならず、現実の人間関係や紛争に関わるテーマでもある。

引き裂かれた世界にイエスが来て、その歩みを通して見せた「神の国」。富坂キリスト教センター編で3月に出版された『いのちにつながるコミュニケーション』は、イエスのような歩みを願い「和解の祝福を生きる」道を、日常の人間関係、暴力的な世界の問題、聖書の中のコミュニケーション、イエスの生き方など様々な角度から提示している。同書の「社会倫理と霊性」に焦点を合わせた項から、分断・対立の続く世界で「神の国」に招かれる意味に光をあてた箇所を紹介する。

A5判・240ページ 定価1,980円(税込)いのちのことば社

 

社会倫理と霊性

ここから語られるのは、私が世界の様々な場所を旅する中で見てきた「分断」と「和解」の物語です。
イエス・キリストは、ローマ支配下にある社会において、虐げられ顧みられなかった小さな人々の中で福音を告げ知らせました。私が目撃してきたものも、目を覆いたくなるような悲惨な出来事の中にありながら、人々がイエスの示した福音を生きている姿でした。
(略)

報復ではなく「赦し合い」の関係へ

⑴ 分断・対立の問題に第三者はいない
21世紀も早20年が経ちますが、人間は歴史を顧みることなく戦争や紛争を続けています。敵意と憎しみ、爆撃による犠牲者はあとを絶たないどころか、無差別殺戮(さつりく)が今なお続いています。そして、飽くなき欲望(むさぼり)を追求することによって神の造られた美しい空や大地、海が人間の手によって破壊されています。

しかし思うのです。こうした分断・対立の問題に第三者はいないのだということ、そして、加害・被害などのベクトルは違っていても、一人ひとりが当事者なのだということを。

九州の食品公害・カネミ油症患者の紙野柳蔵さん(日本福音ルーテル教会員)が、犬養光博牧師(当時、筑豊の福吉伝道所牧師)の心を突き動かした言葉、「無関心は、公害殺人企業の加担者である」を想い起こします。

戦争、環境破壊、差別をするのが人間であるならば、これらをストップさせることができるのも私たち人間です。そのためにも、自らの枠組みを超えて出会い、対話を試みること、お互いを人として認め合い、大きな視野で共に課題を担う関係性が必要になってきます。

2019年3月15日、ニュージーランドのイスラム教モスクに対するテロリストの襲撃事件が起こりました。その直後、アーダーン首相は自らイスラム教徒の装束を身にまとい、テロ行為への非難と同時に、イスラム教徒の犠牲者たちへの追悼の言葉を述べました。

“They are us.”(「彼ら〔殺されたムスリムたち〕は私たち〔ニュージーランド国民〕だ」)と述べ、共感と思いやり、愛をもって向き合うこと、銃の規制と被害者への支援を表明しました。

翌日にはヒジャブ(スカーフ)をかぶり、ムスリムの人たちの話に耳を傾けました。ヘイトがヘイトを生む報復の負の連鎖の渦に多くの人が巻き込まれないために、首相は、テロを起こした容疑者の名前を伏せ、ムスリムの人たちからヘイト心が生まれるのを食い止めようとしたのです。コロナ禍の危機でも、首相は冷静さを保ち、国民の不安に共感し、断固とした決断を表明しています。

 

ヘイトを繰り返す人も 出会いで言葉を回復

在日大韓基督教会横須賀教会の金迅野(キム・シンヤ)牧師は、多くの在日コリアンが居住する川崎市でヘイトデモに遭遇した自身の経験から、「ヘイト」の感情をあらわにする人には「自身に物語がない」という現実があり、物語を聴いてくれる人や他者との出会いが欠けているのではないか、と指摘しておられます。さらに金先生は、現代社会における「ことばの貧困」「物語の貧困」は、ヘイトスピーチをする側だけでなく、罵りの言葉で応酬するカウンター側にも当てはまると言われるのです。

けれども、罵倒を繰り返したその人自身も、在日コリアンの方々とのあたたかい出会いによって自分の言葉を回復し、「子どもたちを守れ」「差別をやめろ」と語り始めたとの事例を紹介くださいました。言葉と出会いによって人間は豊かに変えられ、差別偏見の呪縛から解放される。このことは真実であり、私たちにとって大きな希望です。自ら考え、判断し、行動するためにも、今一度立ち止まって、自らの枠組みを超えて出会い、対話を試みることが大切であり、和解はそのような一歩から生まれるのではないでしょうか。

⑵ 赦し合って生きる関係へ
神と人間との関係、人と人との関係、本来あったはずの調和の取れた愛と真実の関係、それは、水俣の方言で言えば「じゃなかしゃば(今のようにギスギスした状態とは異なるもう一つ別のオールタナティヴな世)」であり、「もやい」ですが、ここに私たち人間存在の基盤があるのではないでしょうか。私たちは、「報復の連鎖」ではなく、神が求めておられる「赦し合いの関係」を選び取って生きていきたいと願います。

すべての人は、和解の祝福の生に招かれています。その事実を信じ、出会いや「もやい」をお互いが大切にできれば、その新しい世こそが「じゃなかしゃば」であり、聖書が告げている「神の国」のひな型だと思うのです。私たちはいま、いったん立ち止まって、人類の様々な経験や知恵を集め、それを遺産の泉から汲(く)み上げる努力を続けたいのです。私たちは、近づきつつある「もう一つ別の世界」「神の国」に共に招かれている仲間なのだから、必ず実現できるはずです。
(第2章「希望のしるし」2 社会倫理と霊性〔岡田仁著〕より抜粋 2021年7月18日号掲載記事