求められる正しい歴史認識と「戦責告白」の継承 寄稿 日本キリスト教協議会(NCC)教育部 比企敦子

写真=教会の「戦闘機献金」で日本基督教団号(1944年)として報国号(海軍)愛国号(陸軍)が献納された

はじめに

政府は「コロナに打ち勝った特別なオリンピック」とすべく国民を鼓舞している。その姿は、戦況が著しく劣勢であるにも関わらず、国民に勝利を信じこませようとした70数年前を彷彿(ほうふつ)とさせる。自粛警察、同調圧力などの不快な表現が闊歩(かっぽ)する現在、アジアの民衆を苦しめた歴史の再認識と共に、平和構築への新たな思いと責任が求められる。

敗戦後76年となる今、教会・キリスト教学校・諸団体は、戦争協力の事実、戦責告白を十分に継承する使命が与えられているのではないだろうか。

「戦前・戦中・戦後」を証言する歴史資料

日本日曜学校協会(NSSA)設立110年となった2017年5月、日本キリスト教協議会教育部の事務室内に「平和教育資料センター」が開設され、既に国内外から480人を超える方が来館されている。明治期以降の宣教に関する資料と共に、国策に沿って大東亜共栄圏建設のために子どもたちを「ミスリード」した教案誌をはじめ、「戦闘機献金」「戦時讃美歌」「戦勝建国記念母の運動」「皇軍慰問画集」「皇紀2千600年奉祝全国基督教信徒大会」などの資料が展示されている。

それらの歴史資料は、翼賛体制下で苦悩したキリスト者というより、国家と一体化することが信仰であると信じ、喜んで協力した姿を写し出している。たとえ教案誌通りに教えなかったとしても、子どもたちによる「皇軍」のための慰問図画・手紙・献金は、教会で受けた教育をそのまま表現しているのではないだろうか。

写真=「平和教育資料センター」の展示から。教会の子どもらによる「皇軍慰問畫(画)集」

1941年の「宗教団体法」による日本基督教団創立は、NSSAの土地・建物の全財産を新教団に無償移譲による「待望の認可」であったと記載されている。あきらかに渋々譲渡したのではなかったのである。日中戦争への支持表明も、その後の戦争協力も同一線上にあるといえる。

「国家に都合の良い教育」に抗して

歴史教科書問題や教科書検定制度には根深い背景があり、この問題は既に30年以上続いている。歴史修正主義に立つ教科書は、アジアにおける日本の植民地支配、虐殺・拷問を含む加害の歴史や沖縄戦の記載を除外する一方、万世一系の皇室を戴く特別な国家としての誇りについて随所で言及している。近・現代史が正しく教えられているとは到底いえない。それらの出版・発行の背景には「日本会議」を母体とする「新しい教科書をつくる会」が控えている。

さらに、208年に小学校で、19年には中学校で道徳が正式な教科となった現在、歴史認識や信教の自由は間違いなく圧迫される方向へと進んでいる。著名人を登場させ、国旗・国歌を重んじるのは当然であると教え、子どもたちの心を国家主義的な方向へと誘導している。1999年の「国旗・国歌」法制化の際、「強制はしない」との国会議事録があるにもかかわらず、全国の公立小・中学校で教職員への強制が続き、処分された教員が提訴した裁判も多い。

日本政府は国際労働機関による是正勧告も無視したままである。多様な背景をもつ児童・生徒がいるにもかかわらず「日の丸・君が代」を強制する流れは、道徳の教科化とあいまって国家に忠実な「国民」を育て、やがて同化・同調圧力へと向かうのは想像に難くない。現在、地方のある小規模なキリスト教学校に対し、「日の丸・君が代」をめぐり県からの「嫌がらせ」に近い圧迫も聞こえてくる。

国家や社会の諸問題に目を向け、物事を批判的に捉える視点を育てないような道徳教育では、戦前と同じ道を再びたどることになる。宗教教育を禁じた1899年の「文部省訓令第12号」とは異なる圧迫が、今もなお存在しているのである。

1920年、教派を超えたキリスト教諸派が「第8回世界日曜学校大会」を東京で「成功裏」に開催した際には、政財界だけではなく宮内省からも高額な御下賜金を得ている。28年、教案誌に「紀元節学課」掲載、昭和天皇即位大嘗祭への献上品、大政翼賛態勢への協力、国体護持など、侵略戦争への一翼を担った歴史を忘れることは許されない。当時の教会や教育機関が、天皇制、権威、国家、社会情勢に対して無批判に沈黙し、自らの組織の拡大発展のみ追い求めた姿勢は、国家に都合の良い教育そのものであった。

継承すべきものとは?

センターに展示されている戦闘機「日本基督教団号」の写真を見て、絶句された高齢の方がおられた。「戦闘機献金」を全くご存じなかったとのことだった。幼かったゆえではあろうが、戦後70数年の教会生活の中で一度も伝えられなかったという事実が、私にはむしろ衝撃であった。

教職者だけでなく、信徒を含む日本のキリスト教界全体の歴史認識が問われるのではないだろうか。保守政治団体と同様に「負の歴史に蓋をしてしまった」と言われても否定できない現状があるのではないだろうか。キリスト教学校においても、学校史や年史を用いて戦争協力の事実を正しく伝え、教育に活(い)かしているかが問われる。建学の精神やスクールモットーは熱心に伝えても、歴史の事実や戦責告白には距離をおくような姿勢では、キリスト教学校における平和教育の視点の継承がなされていると果たして言えるであろうか。

比企敦子氏