教育は我々を自由にするのか―戦時教育の現代性 寄稿 和光大学現代人間学部心理教育学科教授 辻 直人

幼稚園実習を終えてゼミに戻ってきた女子学生の発言に、私はハッとさせられた。
その学生が実習に赴いていた幼稚園は習い事に熱心で規則が色々とあり、教師が「きまりごと」を園児に指導する場面がよくあったそうだ。こういった幼稚園は今とても人気があるらしい。そして彼女は次のように結論づけた。

「自己主張の強い子どもは社会に出てやっていけるのだろうかと心配になった。日本の場合、会社の考えに合わせないといけない。だから、教育はその社会で生きるために、社会に合う人を育てなければいけないのではないか」

ずっと自由教育がいいと思っていたその女子学生は、幼稚園の「現実」を見て考えを揺さぶられたようだった。私は、教育の本質を問うまなざしが素晴らしいと喜んだ反面、これが日本の教育の現実だとしたら、由々しき事態と思わされた。教育の目的は社会体制を支えるためなのか、それとも社会に働きかける個性を伸ばすことか…。

戦争の時代、教育内容は支配者に完全に掌握され、教育勅語によって、お国のため、天皇のために身も心も捧げる教育が遂行された。そこにあるのは全体主義で、人々の自由意志はことごとく弱められた。自由を掲げた教育機関は弾圧対象となり、戦争の教育は「犠牲」と「奉仕」の精神を育てた。それは、キリスト教学校も同様であった。

キリスト教学校は「主を畏(おそ)れることは知恵のはじめ」や「真理はあなたがたを自由にする」といった御言葉を建学の精神に定め、教育を実践してきた。しかし、戦時下になると、多くの学校が御言葉を土台とするのではなく、時の政府が求めてくる方針へと土台を変更してしまった。

例えば立教学院は1942(昭和17)年に、学校の基本方針(「寄附行為」)を、「財団法人立教学院ハ日本ニ於(おい)テ基督教主義ニヨル教育ヲ行フヲ目的トシ…」から「…皇国ノ道ニ則ル教育ヲ行フヲ目的トシ…」と変更した。教育の土台からキリスト教が消されたのである。これは立教学院だけの問題でなく、戦時下多くのキリスト教学校で「皇国ノ道ニ則ル教育」を表明するようになった。

この時代の記録を見ていると、キリスト教主義の教育機関でも従順に天皇への敬意と国への忠誠心をかきたてる指導をしていたことが分かる。その一例として、東洋英和幼稚園の園日誌を紹介しよう。1938(昭和13)年4月28日の園日誌には、
「明日は天長節(天皇誕生日)なので、どの組も日の丸の旗を作りました」という記録があり、続く4月29日には、「今日は天長節です。皆旗をふって歌いました。よい子で元気に丈夫に大きくなって、お国のお役に立つ人になりましょうとお祈り致しました。式だけで十時帰えりました」と書かれている。

これが、この時代のごく自然な教育の風景だった。紙面の関係で詳しく紹介できないが、子どもたちにとっては、兵隊は身近な存在だったし、戦争ごっこは身近な遊びだったことが、園日誌を読むと分かる。教育の目的は、国の戦時体制を支えるために行われていたのだ。

本来、キリスト教学校の多くは自由な校風が特徴だった。1925(大正14)年には全国の中等以上の学校に配属将校が配置され、軍事教練が学内で実施されるようになった。

しかし、明治学院では、軍事教練をするかどうかを学生協議会に委ねている。投票の結果、117対82で高等学部では実施しないことを決議し、27年までの期間は行わなかった。これは驚くべきことで、ここから、学生の意見を大事にする明治学院の校風が伝わってくる。

しかし、商業科を中心に、軍事教練が成績単位から外れると就職に不利になるという声が出たために、28年1月に再度学生協議会で投票した結果、187対116で教練の実施を可決することになった。国家からの要求だけでなく、会社からの要求にも学生たちは飲まれてしまったのだ。

1930年代後半頃には、キリスト教学校から自由な空気がますます失われていった。35年、総長就任式で「私は同志社学園に、自由にして敬虔なる学風の樹立を提唱し、之を熱求して止まぬ者であります」と表明した湯浅八郎に対し、保守的な教員や学生らから激しい誹謗中傷と数々の事件が起こり、湯浅は任期半ばの37年に辞任に追い込まれてしまった。(詳しくは辻直人「湯浅八郎と教育同盟会―キリスト教教育をめぐって―」『明治学院大学キリスト教研究所紀要』第52号、2020年、を参照)

戦時下の青山学院中等部に在籍していた気賀健生(けが・たけお)の回想によれば、1941年12月8日、真珠湾攻撃の当日も、中学部ではハーカー宣教師がいつもと変わらない明るい調子で授業をしていた。

だが、授業を終えると「もう、これで君たちと会えなくなるかもしれない」と寂しそうに教室を出ていった。その直後、今度は中庭で配属将校が号令をかけ「お前たちは重大な覚悟をしなければならない」と演説を聞かされたという。

それ以降ハーカーは収容所に留置されて強制国外退去となった。学内では配属将校の威勢がよくなり、自由にものを言える教員たちは追放されていってしまった。(詳しくは青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒―戦後50年の反省と軌跡―』を参照)

このように、戦時下の教育は国家体制の維持のために用いられ、個人の自由を奪っていく働きをしていったのだった。自己を見つめ、神と一対一で対話することから始まるのがキリスト教信仰である。それは、神との出会いによって、一人称としての自己を見出すことでもある。そのような個人を土台とする教育が骨抜きにされたのである。

「星野君の二塁打」という道徳教材をご存知だろうか。今でもいくつかの教科書(小6)に載っている。監督からバントの指示が出ていたのにもかかわらず、星野君は二塁打を打ち、チームは勝利を収めた。しかし、翌日監督は、監督の指示に従うというチームの方針に背いた野口君を、罰として次の大会に出場させないと決定した。

このような教材が今の時代に読まれている意味について考えてほしい。集団や国家への忠誠を土台とする考えで行われる教育に対して、キリスト教の果たす役割は何なのか。戦時教育への反省を、今改めてかみしめたい。